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「……」
史郎は頬杖をついて、考え込んだ。
軍務に関わる記録以外は、一見気晴らしに書いただけの、ただの雑記だ。しかし、そこには雨野と樹の間にあった、友情以上の感情が見え隠れしていた。生前の雨野の、樹に対する熱心な態度を見ていて、勘の良い史郎は薄々気付いてはいたのだが。
――そうか、こんなに昔から始まっていたのか。
心に何かがストンと落ちるような感覚があった。
雨野は戦時中の話を人に語ろうとはしなかったので、大陸で一体どのような経験をしてきたのかを、史郎は知らない。きっと葉子や義母も、何も知らないはずだ。
だが日記を読んで察するに、おそらく雨野と樹は戦地で出会い、日を経ずして同性愛の関係になったのだろう。そして二人は、お互いの存在を心の支えにしながら、戦中そして戦後を生き抜いてきたに違いない。
史郎の知っている彼らは、不器用で気が短い江戸っ子の雨野と、白無垢を着た葉子に「おめでとう」と穏和な顔で言っていた樹――そんな、ごく平凡な老人達だった。
しかし、あの不器用な義父にも若き日々があり、愛に情熱を燃やした事があるのだと思うと、なぜだか無性に切なかった。
最後に残った焼け焦げた封筒に手を伸ばした。
『雨野正太郎様』とだけ書かれたそれをしばらく眺めてから、史郎はそのまま封筒を机に置いた。
おそらくこの封筒の中には、雨野と樹が四十二年間守り続けてきた、秘密が入っている。約束通り、この封筒は、誰にも知られることなく、最後まで守り続けなくてはならない。
史郎は椅子にもたれかかり、決意を固めて天井を仰いだ。
雨野正太郎が鬼籍に入る一週間前の、夏の宵のことであった。
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