12 煙

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 1987年7月  史郎は雨野が入院する病院を訪れた。  いつもは必ず、葉子と篤郎も一緒に連れてくる。しかし、この日は誰にも何も言わず、一人きりでこっそりと病室に足を運んだ。 「失礼します」  ノックをして、病室のドアを開ける。  ベッドに横たわった雨野が、史郎の顔を見て、口角を少し上げた。その表情は弱々しい。  史郎はベッドの側に近寄り、腰をかがめて雨野に顔を近づけた。 「お義父さん、託された物は全て無事に回収しましたよ」  耳元で、小声で囁く。  雨野はそれを聞いて、うんうんと頷いた。  瞳がうつろに天井を向く。ここ数日で雨野の病状はかなり悪化し始め、モルヒネの投与によって、意識が朦朧としている時が多かった。 「……」  雨野の口が動く。苦しげに、言葉を紡ごうとしている。  史郎はその口元に耳を近づけた。 「……夢を、見るんだ」 「夢?」 「戦争ン時の夢だ」 「……」 「俺は兵舎の前にいて、雪が降ってて……向こう側に、軍服を着た樹が立ってる」 「……」 「樹はまだ、子供みたいな顔をしていて……純朴そうな、可愛らしい顔で……俺の姿に気付くと、嬉しそうに駆けてくるんだ」 「……」 「俺は樹を抱きしめようとして、いつも……そこで目が覚める」 「……」 「……もう一度、会いてえなあ……」  史郎は再び、雨野の耳元に口を寄せた。 「大丈夫。すぐにまた会えますよ」  そう言うと、雨野はまたうんうんと頷き、目を閉じて深く溜息をついた。  心電図の無機質な音が、病室に響いている。 「樹……俺ァ一目惚れだったんだぜ……」  雨野は掠れた声で呟く。もう殆ど、うわ言のようだった。目の前に史郎がいることも、すでによくわからなくなっているように見えた。  史郎はそんな雨野を寂しく見つめ、少し考えてから 「ありがとう、正太郎さん」  と囁いた。  その時、雨野は目を閉じたまま、今までに見たことの無いような、穏やかな顔で微笑んだ。柔らかな、愛情に満ちた笑顔だった。きっと夢うつつの中で、樹の声を聞いたのだろう。  史郎は目を丸くした。かがんでいた体を起こし、ベッドの上の雨野をじっと見下ろす。  義父がこんな風に笑える人だということを、史郎はこの日、初めて知ったような気がした。  こんな風に、誰か一人を一途に愛せるということを、羨ましくさえ感じた。
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