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樹はまぶたを開けた。
眼の前にレンガ造りの軒の低い家屋が連なっている。見覚えがある風景だった。でもどこなのか思い出せない。頭がぼーっとしている。いったい何故ここにいるのか、自分は何をしていたのか、思考が曖昧だった。
「当番兵さん、立ったまま寝てるんじゃないだろうね?」
振り返ると、扉の隙間から、着物を着た女がこちらを見ている。視線を上に向けた。扉の上には、『将校倶楽部』と書かれた看板が掲げられていた。
「そんなとこに立ってないで、玄関の中で待ってたらどう?」
女は樹を気遣うように手招きをした。
――ああそうだ、まだ戦争の途中なんだった。ここは中国だ。自分は今、小隊長殿が慰安所から戻るのを待っているんだった。
樹は状況をようやく理解した。ぼんやりとした頭を覚醒させようと、頬を叩く。
「いえ、自分はここで大丈夫です」
「そう? まあ、もうじき出てくると思うけどねぇ……」
そう言いながら、女は扉を閉めた。扉の向こうから、誰かの楽しそうな笑い声が微かに漏れている。それに比べて、外の通りは人影もなく、静かだった。
樹はゆっくりと壁にもたれかかり、下を向いた。しかし、すぐにまた扉が開く音がした。反射的に、ピンと姿勢を正して振り返る。
「日高、待たせたな」
ぷんと酒の匂いが漂った。
赤い顔をした雨野正太郎少尉が、そこに立っている。
――ああ、隊長殿だ。懐かしい。
そう思った瞬間、『はて、自分は何故懐かしいなどと思ったのだろうか』と、樹は首をひねった。不思議ではあったが、その時確かに、懐かしい思いに胸が熱くなるような感覚があったのだ。
雨野は眉間を抑えながら、樹に手招きをした。
「目眩がする。日高、肩ァ貸してくれ」
側に寄ると、雨野は樹の肩に腕を回した。その手が、樹の肩から二の腕のあたりをぎゅっと掴む。
二人は星空の下、兵舎までの道を歩き始めた。
「女を抱いてきたんでありますか?」
なんとなく、ついそんな言葉が出てしまった。慰安所から出てきておいて、何を当たり前のような事を――口にしてから、樹は少々気まずく思った。
「酒だけだ。中隊長殿の付き合いでな。俺はそういうの、別にいいんだ。今頃、中隊長殿はお楽しみだろうがな」
雨野は平坦な声で答えた。
樹は内心ほっと胸を撫で下ろし、雨野に微笑んだ。
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