番外編 飴が溶けるまで

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 終戦を迎えた数カ月後には、樹は中国大陸から日本へ戻るための復員船に揺られていた。  船の鉄壁にもたれかかり、身を縮めるようにして座る。  薄暗い船の中は、無数の人で溢れている。皆疲れた顔で俯きがちに、身を寄せ合っていた。 「てめえ何を偉そうに、もう我慢ならねえ! 海に投げ落としてやろうか!」  突然、船内に怒声がこだました。どうやら近くで喧嘩が始まったらしい。  ぼろぼろの軍服を着た男たちが立ち上がり、胸ぐらを掴み合っている。周囲には慌てて止めに入る者もいれば、やじを飛ばす者もいた。  樹は体を丸めて、恐る恐るその様子をうかがった。 「てめえなんかもう上官でもなんでもねえんだ! ぶっ殺してやる!」  掴み合っていた男の片方が、投げ飛ばされる。まずい、と思った時にはもう、目の前に男の背中が飛んできていた。樹は反射的に、ギュッと目をつむった。 「危ねえ!」  隣から叫び声がした。  それと同時に、頭蓋骨にゴンッと鈍い音が響く。  重い。それに頭や体が痛い。  そっと目を開けた。  樹の隣に座っていた男が、樹を庇うように覆いかぶさっている。そして、そのさらに上に、飛んできた男の体が乗っかっているらしい。  樹は横倒しになり、結果的に二人分の体重に押しつぶされていた。  すぐ目の前に、男の顔があった。  しかしその顔には、全体を覆うように包帯が巻かれていて、どんな顔つきかはよく分からない。  男は「ううっ」と低くうめき、飛んできた男を振り払うように身を起こし、怒鳴った。 「(せめ)ェんだ、殴り合いなら(おか)に着いてからやってくんな!」  そうだそうだ、と周囲から非難の声が上がる。  そして船内は、じきに静かになった。  樹は姿勢を直して、隣の男に声をかけた。 「大丈夫ですか?」 「ああ」  今の騒ぎで、巻いていた包帯がずれたらしく、男は顔の周りをいじっている。しかしその包帯は、端からどんどん緩み始めていた。  樹は、そっと男の手を止めた。  包帯の下の瞳がキョロリと動き、少し戸惑ったように樹を見た。  樹は包帯を一度ほどき、顔に巻き直して、しっかりと端を止めた。  男は、顔の左半分から首にかけての一面に、火傷を負っていた。傷は塞がってはいるが、むごい状態だった。 「……どうも」 「いえ」  会釈する男に、微笑みかける。  男は樹をじっと見つめ、周囲に気兼ねしてか小声で言った。 「なあアンタ、駄目で元々なんだけど、ちょっと聞いてもいいか?」
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