番外編 飴が溶けるまで

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 急になんだろうかと思いながら、樹はこくんと頷く。 「風間傳吉(かざまでんきち)って奴を知ってるか?」 「……?」 「オレの兄貴なんだ」  中隊にいた兵士の名を、できる限り思い返してみたが、覚えの無い名前だった。  樹が首を横に振ると、男は肩を落とした。 「……そうか。悪ィな」 「お兄さんも大陸に?」 「ああ」  男は壁に力無くもたれかかり、ぼんやりと呟いた。 「兄貴、もう生きちゃいねえかもしれねえな。なんとなく思うんだけど」 「そんなこと言わないで。きっと無事です!」  思わず強い口調で言ってしまった。  男は驚いたように樹を見ている。 「あ……申し遅れました。自分の名は日高樹(ひだかいつき)であります」 「もう軍隊口調はやめろよ。……ありがとう。オレは風間清(かざまきよし)っていうんだ」  包帯の下の口元が動く。ニッと微笑んでいるらしい。 「オレ、顔がこんな有様だから分からねえかもしれねえが、多分アンタと歳も近いぜ。帰国まで仲よくしようや」  風間は樹の一つ歳上だった。  江戸訛りを指摘したら、両国の寿司屋の(せがれ)だという。樹の生家は、そこから西にずっと進んだ、牛込(うしごめ)区(注:現在の新宿区)の神楽坂にあった。  同郷の者同士肩を並べると、不安な船旅も少しは安心できるような気がしてくる。 「さっき投げ飛ばされた奴、将校だぜ」  風間が声をひそめるようにして言う。 「軍隊で、部下に散々意地の悪いことしてきたんだろ。戦争が終わっちまえば、ただの人だもんな」 「自分の……僕の上官は、いい人だったよ」 「そっか。生きてんのかい?」 「わからない」  樹は雨野(あまの)の背を思い浮かべた。  胸がぎゅっと締め付けられるように切なくなる。  雨野とは、戦争の途中で離れ離れになってしまい、生死を知る術は無かった。 「……きっと無事さ」 「無事かな」 「ああ。きっとまた会えるよ」  その後も他愛もない話を続けていたが、そのうち疲れと眠気に襲われて、会話は途切れ途切れになっていった。  沈黙している間は、風間とお互いの肩に体重を預けながら、船に揺られていた。  終わってみれば、あの戦争とはいったいなんだったのだろうという、虚しい思いがした。  夢のような時間だった。基本的には悪夢だったが、雨野との思い出だけは、樹にとっては何よりも美しい夢だった。  ――雨野に会いたい。  樹は膝を抱え、雨野の温もりに思いを馳せた。
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