番外編 飴が溶けるまで

4/10
前へ
/82ページ
次へ
 * * *  1923年9月1日、関東大震災が発生した。  天地を揺るがすようなような揺れに、当時樹を身ごもっていた母は、庭先でひっくり返ったという。あわやと思ったらしいが、幸いにも、両親共に無事だった。  そのちょうど7ヶ月後の1924年4月1日、樹はこの世に生を受けた。  しかし、せっかく震災で命が助かったというのに、樹を産んで数年後に、母は病気で他界してしまった。  父は国鉄務めの働き者だった。  母親のいない暮らしは寂しかったが、真面目で子煩悩な父のおかげで、樹は生活になに不自由することなく育った。  軍に入隊したのは、志願してのことだった。  国や家族の為にと思って決意した。  一粒種(ひとつぶだね)として大切にされてきた命を、戦場で危険にさらすことに、若い樹はためらいを抱いていなかった。  ――そしてその戦場で、忘れられない夜を迎えた。  その夜、樹はいつものように当番兵室にいた。  将校の世話や、伝令係を務める兵が控える為の部屋である。  隣は小隊長室で、雨野がいる部屋だ。  少し前から、壁の向こう側の雨野と、助教(注:教官の助手)の川上(かわかみ)軍曹らしき声が聞こえてきていた。  兵舎は現地人が作った建物の廃屋を流用したもので、壁には隙間があり、天井はむき出しの(はり)で繋がっていた。聞こうと思えば、隣の部屋の会話を聞くことくらいはできた。  樹は壁際に近付き、耳をすました。  淡々とした雨野の声がする。 「しかし、補充兵が入るたびに平均年齢がどんどん上がっていくな」  少し険のある、川上の声が続く。 「若いのがもういないんでしょう。日本もいよいよ、どんづまりですかねえ」 「馬鹿、余計な事を言うな」  雨野は樹のいる小隊の隊長であり、軍に補充されたばかりの兵を訓練する、教官の役目も担っていた。 「前線に行く前に、肉離れでもおこして病院送りになっちゃかなわんな」 「それを使い物になるように、なんとかするのが教官の仕事ですから」 「わかってるよ」  コツコツと、長靴(ちょうか)のかかとの鳴る音がする。  輜重隊(しちょうたい)(馬を使った輸送の為の部隊)の兵である樹たちは、普段から長靴を履くことが多いのだ。 「ずいぶん前にも言いましたけど、教官殿のやり方はぬるくていけませんや」  川上のため息混じりの声が続く。
/82ページ

最初のコメントを投稿しよう!

284人が本棚に入れています
本棚に追加