番外編 飴が溶けるまで

5/10
前へ
/82ページ
次へ
「初年兵共、兵隊としては半人前以下だが、変なところで年の功を発揮しやがる。つまり要領がいいわけだ」 「……」 「教官殿の目を盗んで、楽なんかされたら困るでしょ。もっとキツくしごかないと」  川上は雨野の部下だが、雨野より歳上の経験豊富な職業軍人だった。それ故に、雨野にハッキリと苦言を言えるのだろう。  少し沈黙してから、雨野が言う。 「俺のやり方はそんなに駄目か?」 「まるっきり駄目ってこたあ無いですけど。兵隊にナメられちゃいけないと思ってね。特に教官殿みたいな、大学出の若い将校さんなんかはね」  川上の嫌味たっぷりな言葉に、やはり雨野は淡々とした調子で返す。 「随分と生意気な言い草だな、川上」 「何です、本当のことでしょう」 「ぶん殴られてえのか」 「どうぞ」  ざっと足を開き、カチン! と歯を食いしばる音が、わざとらしいほどによく聞こえてきた。  樹は思わず壁に張り付いて、様子をうかがった。 「……」  隣の部屋の気配はしんと静まり返っている。 「くだらん挑発はよせ」  雨野は川上を殴らなかったようだ。  樹はホッと胸を撫で下ろした。それと同時に、川上の呆れたようなため息が聞こえた。 「……そういうところですよ、教官殿。もっとビシッとしてもらわなくちゃあ、他の兵隊にだって示しが付きませんぜ」  またコツコツと、少し荒っぽくかかとが鳴る。おそらく川上の足音だろう。  失礼します、という声が聞こえ、やがて扉の閉まる音がした。  樹はふうっと息を吐いて、壁の方を見つめた。  * * *  数刻が経ち、夜も更けた頃だった。  ゴンゴンと小隊長室側の壁が叩かれ、雨野の呼ぶ声がした。 「日高!」 「ハイ!」  樹は大声で返事をし、当番兵室を飛び出すと、駆け足で隣の部屋の前に立った。 「入ります!」 「入れ」 「日高一等兵、参りました!」  部屋に入り、敬礼をする。  雨野は机の前に腰掛け、日誌を開いている。鉛筆を持った手で、頭を抱えるようにして、ちらりと樹の方を見た。  樹は背筋をピンと伸ばして言った。 「御用でありますか」 「特に用は無い」 「……」  だったら何故呼ばれたのだろう。  反応に困って、樹は口をぽかんと開けるしかなかった。 「……じゃなくてだな」  雨野は眉間にしわを寄せて、短く刈り上げた頭をがりがりと掻く。  そして軍袴(ぐんこ)のポケットに手を入れながら立ち上がり、樹の側に歩み寄った。 「甘い物食うか?」
/82ページ

最初のコメントを投稿しよう!

284人が本棚に入れています
本棚に追加