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「初年兵共、兵隊としては半人前以下だが、変なところで年の功を発揮しやがる。つまり要領がいいわけだ」
「……」
「教官殿の目を盗んで、楽なんかされたら困るでしょ。もっとキツくしごかないと」
川上は雨野の部下だが、雨野より歳上の経験豊富な職業軍人だった。それ故に、雨野にハッキリと苦言を言えるのだろう。
少し沈黙してから、雨野が言う。
「俺のやり方はそんなに駄目か?」
「まるっきり駄目ってこたあ無いですけど。兵隊にナメられちゃいけないと思ってね。特に教官殿みたいな、大学出の若い将校さんなんかはね」
川上の嫌味たっぷりな言葉に、やはり雨野は淡々とした調子で返す。
「随分と生意気な言い草だな、川上」
「何です、本当のことでしょう」
「ぶん殴られてえのか」
「どうぞ」
ざっと足を開き、カチン! と歯を食いしばる音が、わざとらしいほどによく聞こえてきた。
樹は思わず壁に張り付いて、様子をうかがった。
「……」
隣の部屋の気配はしんと静まり返っている。
「くだらん挑発はよせ」
雨野は川上を殴らなかったようだ。
樹はホッと胸を撫で下ろした。それと同時に、川上の呆れたようなため息が聞こえた。
「……そういうところですよ、教官殿。もっとビシッとしてもらわなくちゃあ、他の兵隊にだって示しが付きませんぜ」
またコツコツと、少し荒っぽくかかとが鳴る。おそらく川上の足音だろう。
失礼します、という声が聞こえ、やがて扉の閉まる音がした。
樹はふうっと息を吐いて、壁の方を見つめた。
* * *
数刻が経ち、夜も更けた頃だった。
ゴンゴンと小隊長室側の壁が叩かれ、雨野の呼ぶ声がした。
「日高!」
「ハイ!」
樹は大声で返事をし、当番兵室を飛び出すと、駆け足で隣の部屋の前に立った。
「入ります!」
「入れ」
「日高一等兵、参りました!」
部屋に入り、敬礼をする。
雨野は机の前に腰掛け、日誌を開いている。鉛筆を持った手で、頭を抱えるようにして、ちらりと樹の方を見た。
樹は背筋をピンと伸ばして言った。
「御用でありますか」
「特に用は無い」
「……」
だったら何故呼ばれたのだろう。
反応に困って、樹は口をぽかんと開けるしかなかった。
「……じゃなくてだな」
雨野は眉間にしわを寄せて、短く刈り上げた頭をがりがりと掻く。
そして軍袴のポケットに手を入れながら立ち上がり、樹の側に歩み寄った。
「甘い物食うか?」
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