番外編 飴が溶けるまで

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「嫌でも戦争なんだ。経験を積んでもらわんことにゃ話にならん」 「……」 「だが、我々の命は御国(おくに)のものだ。無駄にするわけにはいかないが、果たしてどうなることかな」 「……緊張されているんですね」 「そうかもしれない」 「年配の兵隊には故郷に妻子を残してきた大黒柱も多い。隊長殿はそれも気にされているのではありませんか?」  そう言った瞬間、雨野は後頭部で組んでいた指をぱっと離し、樹の方に顔を向けた。  目が合う。樹は少し緊張して、背筋を伸ばした。 「俺が? 何故そう思う」 「隊長殿は時々、兵が(ふところ)から家族の写真を出しては眺めているのを、複雑そうな目で見ておられます」 「……」 「自分は、そんな隊長殿をいつも見ていますから」  いつも見ている、という言葉には、色々な意味が含まれていた。言ってしまってから、樹は頬が熱くなってくるのを感じた。  少し目を伏せ、雨野の視線から逃れながら続ける。 「故郷、家族、愛する人――誰かを想う気持ちは、人を強くします」 「……」 「我々がそうであるように、敵もまた同じかも知れません。しかし皆、覚悟の上です。憐れと思わず、隊長殿はどっしり構えていてくだされば、それでよいかと」  ちらりと雨野の様子をうかがった。  雨野は口元に手を当て、机に向かって俯いている。そしてまた顔を上げ、樹を見た。 「日高、俺は小隊長としてどうだ」  雨野は開いた両膝に手を置いて、椅子に腰掛けたまま、前のめりになるようにして樹の方に身体を向ける。 「頼りになりそうにもないか?」 「そんなことはありません」  樹は首を横に振った。 「隊長殿は誠実な方です。自分は隊長殿を信頼しております」 「誠実、ねえ……」  なぜか、雨野がニヤッと不敵に笑った。 「一昨日の夜、あんなことしたのにか?」 「……」  一昨日の夜、とは。  一瞬考えて、樹は顔を赤くした。耳の先まで熱くなってくるのを感じる。  一昨日、将校倶楽部に雨野を迎えに行った夜のことだ。  樹は月明かりの下、酔った雨野に突然口付けられた。樹にとっては、生まれて初めての接吻だった。  行為の後で樹は動揺した。酔が覚めた雨野も、「忘れろ」と言って、それきり口を閉ざしていたのだが――  真っ赤になりながら、樹は俯いた。 「……忘れました。そういうご命令でしたから」 「いい子だな、君は」  雨野がフッと笑う気配がする。  その口調が普段より、少しずつ柔らかくなってきている。 「俺はどうやら、忘れられそうにもないよ」  少し掠れた声。それからガリッと飴を噛む音がした。  ――ドキンとした。  樹は顔を上げられなかった。 「日高」 「は」 「こっちに来い」  ゆっくりと雨野の方を見ると、雨野は椅子に座ったまま、樹に手招きをした。
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