1 樹

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1 樹

 1986年7月  外出を終えて自宅の玄関を開けるなり、雨野(あまの)は硬直した。今一番苦手な男の顔がすぐそこにあったからだ。 「お義父さん! お帰りなさい!」  雨野を出迎えたのは、娘婿の花月史郎(かづきしろう)だった。  側にいるだけで疲れる、デカい声。史郎はヘラヘラと能天気そうな笑顔を浮かべ、手を振ってくる。  耳鳴りがしそうになるのをこらえて、雨野も片手を上げた。 「……よォ。来てたのか」 「これからお義母さん連れて、葉子(ようこ)さんのお見舞いに行くとこですよ」  先日、娘の葉子が男児を出産した。  葉子は産気づく前から体調を崩し、病院に入院していた。その上腹の子が逆子だった為、帝王切開での出産となった。母子ともに無事ではあったが、やはり体に残るダメージは大きい。入院生活は、もうしばらく続くという話だった。 「遠くからいつも、ご苦労だな」 「いーえ」 「葉子の奴、実家じゃなくて、自分の家の近所で入院した方が良かったんじゃないのか」 「さあ……実家に近い方が、彼女も安心するんじゃないですか? お義父さんも一緒に行きましょうよ」 「いや、俺はこれからまた出て新宿に行くから。葉子にはよろしく伝えといてくれ」 「ん、そうですか。解りました」  史郎はニコリと笑って頷く。その態度は、実にあっさりとしたものだ。  入院中の娘をほったらかしにして、何をしに行くのか。娘のことが心配じゃないのか――そう問われるかもしれないと雨野は身構えていたが、史郎はあくまで、個人の意思というものを尊重する気でいるらしい。  雨野は帽子を脱いだ。頭部に溜まった熱気が、むわっと外に逃げていく。額に伝ってくる汗を手で拭い、それから靴を脱いだ。 「でも葉子さん、怒ってましたよお。『お父さんは、(いつき)おじさんのお見舞いには毎日行くのに、私のとこには4日にいっぺんしか来てくれない!』って」  史郎の口真似は妙に特徴を捉えていた。葉子は気の強い性格の娘だ。ベッドの上でカンカンになっているその姿が、目に浮かぶ。  脱いだ靴を下駄箱にそろえながら、雨野は眉間にしわを寄せて振り返った。 「ばかやろう、俺なりに気ィ使ってるってのに。俺なんかが、赤ん坊生んだばっかの女のトコに連日行ったって、何の役にも立たねえし……逆に気疲れさせるだけだろうが」 「子供心に父親心、ですね」  うんうん、と史郎は感慨深そうに頷く。それから何か考えるように顎に手を添え、わざとらしくウーンと唸った。 「……それにちょっぴり男心もあったりして? ふふふ」  雨野はピクリと方眉を上げた。  この男、一体何のことを言っているのか――警戒心抱きつつ、史郎を見た。  雨野に睨まれても、史郎はまったく気にする様子もない。それどころか、 「ま、僕はお義父さんのこと、よく解ってるつもりですから」  と笑いながらうそぶくのだった。
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