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第5話 逆さ吊りの刑
船旅を経て、まだ小さな港町に過ぎなかった青島へたどり着いた。この先は陸路である。日本から来たチヨを、訪ね先まで案内することとなった。
道行く先では、打ち続く災害に内乱、戦争と、荒廃した土地が広がり、一方で西洋列強の兵隊や役人の姿もあれば、辮髪姿の住人もいて、混沌とした活気を呈してもいる。
だが、トウショウの住む流民街へ向かう途中に立ち寄ったその村は異様なほど静かだった。泊めてくれる家がないか当たってみても、どの家も無人で、内外とも荒れ果てていた。ようやく住民のいる家を見つけ、快く泊めてくれることとなったものの、一人暮らしのその老人が言うには。
「あんた達も運の悪いことだ。しばらく前から、ここいらには化物が出るようになってな。
どうせ山賊か義和団か流民か、そんな連中の仕業だろうと言って新軍が退治に来たが、誰も戻って来なかった。怪力、不死の化物だ。銃も刃物も効かぬ。もう日も暮れるによって泊めてはやるが、明朝、早くに出立することだ」
との話を神妙に聞いていたチヨだが、どんな化物で、どこに潜んでいるのかと、やけに詳しく尋ねるではないか。なにやら嫌な予感のするトウショウが危惧した通り、翌朝、家を出て歩き出したところ、自信満々にチヨがいう。
「さあ、鬼退治だ! 義を見てせざるは何とやら。一宿一飯の義理ってやつだ」
「化物かどうかは別として、軍隊が勝てないようなものを、どうするつもりなんだ?」
「そりゃあ、どうにかするのさ。旅をしながらの化物退治、まるで三蔵法師と孫悟空のようじゃないか」
「あんたが三蔵法師かい?」
「いーや、あたしこそが斉天大聖孫悟空! あんたが三蔵だ」
からからと笑うチヨに呆れるやら惹かれるやら。まさか本当に化物などでもあるまいと思って、チヨとともに、化物が住むという山へ向かった。鬱蒼と茂る木々の合間にわずかに辿れる消えかけた道。ところどころに人らしきものの死骸もある。
トウショウは団練に身を置き、拳法に刀術、一通りのことは身につけているが、山深く分け入るにつれて、異様な気配がしてきた。これは引き返すべきかと思い始めたころ、昼なお薄暗い竹林の奥から人影らしきものが見え、チヨが構えを取るその脇をすり抜けて、それはトウショウの目の前に現れた。
自分の倍以上はあろうかという巨躯に醜く潰れた顔。破れてぼろぼろになった死者の礼服を纏い、恨めしき幽鬼か亡者かあるいは鬼か。有無を言わせず、襲いかかってきたそいつに捕まりそうになったが、背後からチヨである。
化物の足を崩して、横薙ぎに引き倒す。
すぐにも立ち上がって来るかと思いきや、化物は倒れ伏したままピクリとも動かない。
そーっと化物に近付くと、チヨが足先で突ついてみせた。何度か繰り返し、動かないことを確信して、まずは片足から、次に両足で、うつぶせの化物の背中に乗る。挙げ句の果てに、片足で頭を踏みつけ、腰に手を当てて得意顔である。
いくら化物とはいえ、そう無体に扱うものでもあるまいと苦言を呈しようとした時のことだ。
前触れなく、化物の体が浮かび上がった。
背中でバランスをとるチヨともども数メートルは空の上だ。さらに化物がぐるんと身を返し、背中から落っこちたチヨの右足を掴んで逆さ吊りにした。太ももの付け根までめくれあがった着物の裾を抑えながら、チヨがいう。
「悪かった、悪かった。頭を踏んづけたのは謝るよ。助平が下で見てるんだ。離しとくれな」
「誰が助平だ」
憤慨したような、呆れたようなトウショウである。人を食ったようなチヨの言葉には、危機感のカケラもない。
しかし、化物に逆さ吊りにされ、危うい状況には違いはない。トウショウも、何とか助けられないかと必死に頭を働かせるが、そうは妙案も浮かばず。
化物の方も、別に助平でチヨを捕まえたわけでもないようで、大口を開いて噛みついてきそうである。焦ったトウショウが荷物から何から投げつけて気を引こうとするが、効果はない。かえって荷物をぶつけられたチヨが、後で覚えてなとブツクサいう始末だ。
だが、だがだが、だがしかし、緊張感のなさとは裏腹に、チヨの命も風前の灯火。化物の口中に頭が納まり、ひと噛みされれば御臨終だ。もはや何ともならぬと目をつぶったトウショウである。
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