1-4 親子

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1-4 親子

 アジリティ教室が終わると、次の授業まで少しの間自主練をしても良いということで、何人かは居残り練習をしている。  俺は自主練出来るほどアジリティを知らないし、見て覚えるしかないと、テツとグランド周りを散歩しながら他の人の練習を見ていた。  すると、訓練所2階テラスから、何やら必死そうな切羽詰まった女性の声が聞こえてきた。30代と思われる女性と小学校低学年くらいの女の子だ。二人とも手や足に包帯を巻いていたのが印象的だった。 「何とか、お願いします」と女性。  しかし訓練所のスタッフの男性は、 「今は預かりも、躾教室もいっぱいなんです。申し訳ありませんが、空きが出るまで待っていただくしかありません」 と、申し訳なさそうに断わっていた。  俺の時も空きが無く、一色を紹介されたわけだから常に予約はいっぱいなのかもしれない。でも彼女は一色を紹介されなかったようだ。  しぶしぶ引き下がった彼女達が外階段を下りて来ると、テツが女の子に近づいた。 「きゃぁ! 怖い!」  少女が叫んだのでドキリとした。  テツは自分よりデカい犬には吠えついて行くが、人間に対しては人見知りも無くフレンドリーだ。だからつい俺も気が抜けていて近付けてしまい、女の子を怖がらせてしまった。 「すいません! この子はフレンドリーなので、つい無意識に近づけてしまいました。怖がらせてごめんね」  テツを御しつつ謝罪すると、女性は笑って許してくれた。少女はそれでもテツが怖いようで、女性の後ろに隠れてしまった。 「うちの犬が酷い噛み犬で…娘も何度も噛まれてるので、すっかり犬が怖くなってしまったみたいで。このワンちゃんはフレンドリーなのに、嫌な思いをさせてしまって…すいません」  物腰柔らかな女性は、テツを優しく撫でて帰って行った。愛犬が噛み犬とは、あの包帯は噛まれた為だろうか。  あんな小さな女の子が、包帯を巻くほど噛まれるなんて……一色を紹介すべきか迷ったが、包帯を巻いた一色を想像して躊躇してしまった。  一色はプロの訓練士だし、デカいシェパードが噛み付いて来ても受け流す技術を持っているのだから、俺の老婆心など笑い飛ばすだろう。だが、あの少女の手に巻かれた包帯を見ていると、何故か心が騒ついた。  彼女達に良い訓練士との出会いがありますように…と親子の後姿を見送っていると、高山先生が明るい声で話しかけて来た。 「速水さん、今日はお疲れ様でした!」  高山先生は、若さ溢れる爽やかな営業スマイルが可愛らしい。真っ黒い長い髪が唯一の女性らしさで、化粧っ気も無く、香水や柔軟剤の香りもしない、今時珍しい女性だ。 「テツ君なんですけど、関節の検査はお済みですか?」  そういえば以前、一色にも関節検査を受けるように言われた気がする。アジリティはアスリート競技だから、関節が弱い個体には負担になるからと。 「いえ、まだです」 「では出来るだけ早めに動物病院で診てもらって下さい。大丈夫だと思いますが、念の為」 「分かりました。今日はありがとうございました」 「お疲れ様でした!」  高山先生は、手を上げて軽やかに訓練所2階まで階段を駆け上がると、職員室へ消えて行った。  動物病院か。幸い、毎年ワクチン以外は世話になった事が無い。そしてその動物病院は今日は日曜だから休みだ。まだ午前中だし、日曜でも診療している動物病院はあるだろうか?  ネットで調べる事も考えたが、口コミも大事なので一色に聞くことにした。  付き合い始めた日からほとんど毎日のように家に来ている一色。買い物を頼むこともあるのでよくメールするが、電話は数日ぶりか。  スマホのコール音を楽しみながら、何だかんだ言って一色に電話する口実が出来て嬉しい。仕事中で出ない可能性もあるが、折り返しかけてくれるだろうし、あの爽やかな声を思い出すと今すぐ会いたくなってくる。  4回目のコール音で一色が出た。 「はいはぃ?」  少し嬉しげな甘い声が耳をくすぐる。 「仕事中ゴメン、日曜もやってる動物病院知らない?」 3e6d90bb-5c52-430b-9fbf-3e23c67d0627
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