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1-6 ココア
彼女の話を要約すると…彼女の名前は田辺 葵ちゃん7歳。飼ってる犬は、ブラウンのアメリカンコッカースパニエルのココアちゃん。左腕に巻かれた包帯は、やはりその犬に噛まれたのだそうだ。
「ココアね、いつもいきなりかんでくるの。ママがおこっても止めないの。このキズはこの前びょういんでぬってもらったけど、かまれるよりいたくなかったよ。ココアすごくこわいから、ずっとハウスに入れてるの」
細い足をブラブラと揺らしながら話す葵ちゃん。こんな小さな女の子が縫うほど噛まれるなんて、それはかなりのトラウマだろう。
俺は葵ちゃんの頭を撫でて「頑張ったね」と褒めてあげると、嬉しそうに微笑んだ。
「葵…」
葵ちゃんの名前が呼ばれて振り返ると、彼女のお母さんが店内へ入って来たところだった。娘が戻って来ないから不安にさせてしまったようだ、悪いことしたな。
「訓練所ではどうも、葵ちゃんがいろいろ話してくれていました」
俺が立ち上がって会釈すると、お母さんはホッとした様子で娘を迎えに来た。
「娘がお邪魔をして、すみません。アイスを注文するんじゃなかったの?」
「あ、わすれてた!」
葵ちゃんは明るい声でそう返すと、パタパタとカフェの店内カウンターにアイスを注文しに行った。
「娘が失礼なことを言ったりしませんでしたか? 父親を早くに亡くしているので、父親くらいの年齢の男性に憧れがあるようで…」
葵ちゃんの後ろ姿を見守りながら、お母さんは申し訳なさそうに愛想笑いをした。
「いえ、しっかりしたお子さんですね。いろいろ教えてくれました、ココアちゃんのこととか。縫われたそうですが、大丈夫ですか?」
女の子は、傷が残る事を気にする親御さんも多いだろう。ココアちゃんの事も…ずっと閉じ込められていれば、ますます噛み犬になったりしないか気になるところだ。
「傷は"一応縫ってもらった"程度で済んだんですが……犬の躾がお手上げ状態で。先ほども訓練所に預かり訓練をお願いしに行ったんですが、断られてしまいました」
「大変そうですね…」
葵ちゃんのお母さんの疲れた笑顔を見ていると、昔の自分と重なる。毎日帰宅すると部屋が台風の後みたいにぐちゃぐちゃで、テツを手放すべきか何度も考えた。問題は違えど、彼女もまたその選択肢を考えていることだろう。
そこへ、植田獣医がテツを連れて戻って来た。
「速水さん、お待たせしました。テツ君、お利口でしたよー。診察室でご説明しますが、アジリティを続けてもらっても問題無い健康な関節です」
テツはリードいっぱいに彼を引っ張って来たかと思うと、俺の膝に飛び乗った。診察時は平気な顔をしてはいたが、何をされるか分からない不安はあったようだ。撫でてやるとグイグイ身体を押し付けてきた。
植田獣医はテツのリードを俺に渡すと、側に居た葵ちゃんのお母さんにも声をかけた。
「田辺さんはココアちゃんのお薬ですかね。その後様子はどうですか?」
「あまり効果はありません」
親子でカフェを楽しむ為に来ていたのかと思いきや受診だったとは。彼女達が先に来ていたようだが、テツが先で良かったのだろうか?
「そうですか……では次からお薬を変えてみましょうか。あ! そうそう、速水さんは誠訓練士の生徒さんなんですよね?」
診察順を抜かしてしまったかもと気まずい思いでいると、植田獣医師は俺を話題に引っ張り出した。
突然話を振られて隙だらけだった俺は、素っ頓狂な声でハイと答えてしまい、慌ててこの春卒業した事を付け加えた。
「えーと、ですから、今はもう生徒ではないんです」
しかし彼はそんなことは全く関係が無いといった感じで、テツを田辺さんに紹介した。
「誠訓練士の生徒さんは皆さんとってもお利口なんですよー、テツ君も例に漏れずでした。ココアちゃんの噛み癖も、誠先生にも相談されてみてはどうですか? ねぇ、速水さん、躾に困った時は誠先生ですよね!」
状況から見て安易な答えはしたくなかったが、俺自身、そしてテツも、一色に救われた事は事実な訳で。
否定して一色の名に傷が付いても困るので、正直に話した。
「誠先生には犬との接し方から教わりました。おかげでテツを里子に出さなくて済みました。1年半前は俺も崖っぷちでしたが、素晴らしい訓練士さんですよ」
その後、植田獣医は田辺さんに一色の連絡先を教えていた。あの様子だと今日にでも電話がかかって来るかもしれない。
アイスクリームを持って戻ってきた葵ちゃんがテツを怖がる素振りを見て、一色が彼女のトラウマを払拭してくれることを願わずにはいられなかった。
ちなみにテツの去勢も勧められたが、繁殖を考えている旨を伝えて、その日は帰途に着いた。
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