付記:別れの手紙 ――その後のシオンとエルドレッド――

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八  ――自分にとって、シオンとは何か?――  エルドレッドは乾かない目を伏せて、答えを模索する。  ……“先生”、    “仲間”、    “手本”、    “相棒”、    それに“恩人”。  自分の思いつく言葉を脳裏に並べたエルドレッド。  確かに、エルドレッドにとってのシオンは、どの言葉にも当てはまる。  が、エルドレッドは思う。  ……どれとも違う。  お互いに敬意をもって、高め合える存在。  そして相手のために、自分の命を引き換えにしても、悔いのない関係。  それが、自分たち二人だ。  瞼の裏に閃光が走り、エルドレッドは揺らがない答えを得た。  おもむろに目を開き、彼は黙して待つ爬虫人、チマルポポカのワニめいた顔を見上げた。  すうっと息を吸い、エルドレッドは迷いのない、透明な言葉を夜に綴る。 「……“友達”。シオンは、俺を友達と言ってくれた。シオンは、俺の大切な友達なんだ」  そこでエルドレッドは口を閉じた。  チマルポポカが目を伏せる。  ポンチョの下で腕を組み、じっと何か考えていた風な爬虫人だった。  が、すぐに大きな眼を開き、エルドレッドを見つめる。 「『友達』、か」  金色の眼に映る焚き火は、どこか穏やかで温かい。 「なるほど。打算、報酬、快楽、有形無形のあらゆる利益とは無関係に、お互いを想い、尊重できる関係。あなたと『白い蜂』との間には、その『友情』が不朽に存在する、という事か……」  チマルポポカが初めて笑った。  何か吹っ切れたような、得心の入った純粋な笑顔だ。 「正しい答えだ、と私も思う。よろしい」  チマルポポカが、アグロウの村の出口を指差した。  夕方、エルドレッドたちが抜けてきた森の方だ。 「あの『白い蜂』は、元来た道を戻っていった……」  と、チマルポポカがくるりと向きを変えた。  白いポンチョを炎に染め上げて、チマルポポカは村の稜線の奥に顔を覗かせる丘を指差す。 「あなたに聞かれたらそう答えるよう、私に言い含め、『白い蜂』はあの丘陵へと向かった」  銀河の下に仄白く晒されたその丘陵は、まだ人の手は入っていないようだ。  ……こんなウソまで仕込んでおくとは、どうやらシオンは、どうあってもエルドレッドに追ってきて欲しくないらしい。  シオンにしては拙い仕掛けが、エルドレッドの緊迫感を煽り立てる。  やはり彼は、相当に焦っていたのだろう。  エルドレッドはチマルポポカに礼を言う。 「ありがとう! 助かったよ!」  ザックと盾を背負直し、エルドレッドは腰の剣を吊り直す。  シオンを追う身支度を整えながら、ふとエルドレッドは佇むチマルポポカに目を向けた。 「でも、何であんたは俺に本当のことを……?」 「私は究学の徒だ。いついかなる場合でも、事実と真実に従おうとしている。 だから私は『白い蜂』の頼みに叛き、あなたに事実を告げた。そしてあなたの答えには、真実があった」  傲然とそう答えたチマルポポカが、自嘲気味に鼻で笑った。 「そう云う訳で、私は『白い蜂』からの謝礼を受け取る資格を失った」  チマルポポカがエルドレッドに何か差し出した。  二本の長い紐が両端に付いた、柔らかい革の帯だ。  ところどころに着いた真新しい赤黒い染みは、血痕だろう。  その革の中には、紡錘形の石が一個だけ包まれている  エルドレッドは、その見覚えのある道具を見て、思わず声を上げた。 「あっ? それ、投石帯(スリング)……?」 「そうだ。『白い蜂』が、ミゲル殿を斃して奪い取った投石帯だ。名のある者が使った銘器だから、高く売れる。立派な戦利品だ」  そう言って、チマルポポカがずいと投石帯をエルドレッドに差し出す。 「あなたに手紙を渡し、嘘を教える対価として受け取った。だが、私にはもう受け取れない。あなたに託す。『白い蜂』に会えたら、返しておいて欲しい」 「分かった。預かるよ」  石弾の込められた投石帯を、ベルトにしっかり挟んだエルドレッド。  その彼に、チマルポポカが何故かこう聞いた。 「あなたは投石帯を使えるか?」 「使い方は知ってるよ。子供のとき、村で鳥を落とすのに何回か使ったから。あんまり上手くもないけど……」  エルドレッドの返答を聞き、チマルポポカが淡々とうなずく。 「それならば宝の持ち腐れ、とはならないだろう。ザイ殿は、実にいろいろな物と手管を持つと聞く。十分用心を」  そうエルドレッドに忠告しつつ、チマルポポカがゆっくりと焚き火の前に腰を下ろした。 「急いだ方がいいい。腕利き同士の戦いは、一閃で勝負が付くと聞く」 「あ、うん! ありがとう!」  それだけ言い残し、エルドレッドはアグロウの広場から駆け出した。  静まり返る夜更の村を一気に走り抜け、エルドレッドはチマルポポカが指し示した丘へと向かう。  ひっそりと身を寄せあい、眠りに就くアグロウの村から一歩出ると、そこはもう泥濘の原野だ。  ねっとりと溜まった黒い水と、枯れかけた下草と苔が一面に広がっている。  道らしい道もなく、ただ夜空を覆う銀河を曳き映した湿地の向こうに、なだらかに盛り上がる黒々とした地形が見える。  あれが目指す丘陵だ。  エルドレッドは何のためらいもなく、幻想的に、しかし不吉に煌めく沼沢地へと踏み入った。  その途端、エルドレッドの右足がずぶりと泥に埋まる。  この一帯は、恐らくかなりの量の地下水が染み出ている。  地面の下には、大河が流れているのにも等しいだろう。  農業に水は不可欠だが、多過ぎる水は作物の敵になる。  農地に水を曳くのは大変だが、水を干すのはもっと大変だ。  だから、アグロウの村を拓いた人々も、この辺りには手を入れずに放置したのだ。  エルドレッドも、元は農夫の子だ。  どうしてこの荒れ地が拓かれもせず、未だに放置されているのか、その理由がすぐに分かったエルドレッド。  小さくうなずきながら、エルドレッドは泥に埋まった右足を引き抜いた。   しかし沼地を進むエルドレッドの歩みは、水と泥に阻まれ、遅々として進まない。  反対に、足を取られる焦りともどかしさ、それに苛立ちばかりが胸の底に蟠ってくる。  そして、頭の中を占めるのはただ一つ、シオンの安否だけだ。  今さらながら、クライフの母親が最後の言葉が、鼻の奥に沁みてくる。  ――シオンの顔は、あえて泥を被る者の顔だ――  その意味を奥歯に噛みしめて、エルドレッドは泥沼の只中を必死に進む。    ……ああ、シオンはまだ無事だろうか?   シオンが桁外れな腕の持ち主だということは知っているが、あのザイとか首狩りテッドとかいう黒い男も、見るからに常軌を逸している。  早く、早く行かないと……!  人外境の静寂が、エルドレッドに重苦しくのしかかってくる。  彼の耳を衝くのは、緊迫した自分の鼓動と、ぶくっぶくっという泥濘を踏む足音だけだ。    が、風に乗って別の音が目指す丘陵の向こうから、微かに聞こえてくる。  エルドレッドはハッと立ち止まった。  神経を集中した聴覚が捉えたのは、何か金属同士がぶつかり合う、高い音だ。 「シオンだ……!」  エルドレッドの胸中に、激しい焦りとわずかな安堵とが混然となって膨れ上がる。 「まだ間に合う! 急がなきゃ……!」  そうして数十歩。  膝まで泥をかぶったエルドレッドの足が、少し硬い坂道を踏んだ。  丘陵地にたどり着いたようだ。  金属と金属が立てる高く澄んだ、それでいて鬼気迫る音は、まだ続いている。  友の無事を祈りつつ、エルドレッドは腰を落として丘陵を駆け上がる。  程なく、丘の頂上に立ったエルドレッドは、眼下の光景に息を呑んだ。  ……いた!   なだらかに下る坂道の果ての沼沢地に、刃を交わす二つの人影。  一人は、闇夜よりも暗い漆黒の男。鋒のない奇妙な大剣を振りかざす。    もう一人は、夜闇に浮かび上がる白い男。  その身に迫る大剣の軌跡を見切り、漆黒の男に向かって小太刀を閃かす。  しかし黒い片耳の男も、紙一重の間合いから、剃刀のような斬撃を奇妙な剣で受け止める。  その度に、夜の中に赤橙色の火花が咲いては散ってゆく。  間違いない。  片耳の男は“首狩りテッド”。  そして小太刀の白い男は、シオンだ。  互いの死力を尽くして切り結ぶ二人。  互いに意識を集中する彼らは、どちらもまだ丘の上のエルドレッドには気付いていない。  生死を決める『一閃』の瞬間は、未だに訪れておらず、じわりとした喜びが、図らずも涙と込み上げるエルドレッドだった。  が、すぐに今の自分の位置が目立ち過ぎることに気が付いた。 「あ、ヤバっ……!」  慌てて下草の中に膝を屈めたエルドレッド。  丘の稜線に身を潜めつつ、そっと丘陵の麓を窺う。  シオンと首狩りテッドの戦いは、もう数十合にも及んでいるのだろう。  星明かりを受けた二人の様子は、対照的だ。  漆黒の男は、息は多少荒いようだが、傲然と上体を起こし、シオンを凝視する。  対するシオンは、小太刀を左手に提げた状態で身構えてはいるものの、立つのも辛いように映る。  やはりあの飛石のミゲルと戦いで負った傷が、堪えているのだ。  ……ああ、やっぱりシオンが危ない……!  どくんどくん、という自分の心音が、エルドレッドの耳を衝く。  何かしたい。  でもまだ出てはいけない。  跳び出したところで、シオンに迷惑が掛かるだけだ。  そんなもどかしさが、エルドレッドの精神をじりじりと焦がす。    息を詰めて丘から見守るエルドレッドの前で、二人がスッと間合いを離した。 「あっ……」  およそ十歩の距離を置いて、睨み合うシオンとテッド。  彼らの表情は判然としないが、シオンの視線は手負いの猛禽のように鋭利だ。  対するテッドの黄色い目は大きく見開かれ、口を開けた狂獣を思わせる。  たぶんきっと、二人はお互いに最後の隙を探り合っているのだ。  ……『そのとき』はもう近い。  ごくりと唾を呑んだエルドレッド。  瞬きさえも忘れて見守る彼のずっと下方、シオンとテッドは身構えて睨み合ったまま、微動だにしない。  張り詰めた時間と、凍り付く空気だけが流れてゆく。  不意に、シオンの手がふっと動いた。  刹那、無造作に提げられた鞘から、目にも留まらない早さで刀身が抜き払われた。  きん、と虚空を斬る刃から、煌めく白銀の斬波がほとばしる。  いつの間にか鞘に収められていた小太刀が、ひと瞬きの間に二回、三回と続けざまに閃めいた。    瞬時に夜闇を掻いた爪痕が、三日月のような光刃へと変わる。  シオンの超絶的な技巧が生みだした三つの斬波が、テッド目がけて一直線に宙を疾駆してゆく。  「スゴい……!」  不吉な神々しささえ覚える、シオンの秘技。  思わず見とれるエルドレッドだった。  しかし、対峙するテッドは狼狽えない。    テッドが、手にした大剣の平らな鋒を足元に突き立てた。  すると剣の鍔の付け根に付いた小さな車輪が、しゃららん、と音を立てて回り始めた。 「何だ……?」  草の中からエルドレッドは目を凝らす。  ひと瞬きの間もなく、車輪の周囲から虹色の極光が滲みだした。  その幻想的なオーロラは、テッドの前にゆらゆらと広がってゆく。  その様子は、まるでそよ風にたゆたう優美なカーテンか、ワルツを舞う美女のドレスの裾のようだ。  あまりの美しさに、ついエルドレッドも緊張を忘れて見惚れてしまう。  テッドの身を護るように曳かれた光の幕に、シオンの放った銀の斬波が遮られた。  その瞬間、白銀の波動は、目映いばかりの閃光と、耳をつんざく音を響かせて爆散した。 「わっ!」  つい痛む両耳を塞いだエルドレッド。  目映い光に当てられて、視野もちかちかしたままだ。  その無数の星がちらつくエルドレッドの視界の中で、テッドの顔が余裕に歪んだかと映る。  が、次の瞬間には、その酷薄な笑みは、驚愕に凍り付いた。  テッドの前から、シオンの姿が忽然と消えていた。  そのテッドの見開かれた黄色い目が、ハッと天を仰ぐ。  エルドレッドも、漆黒の男の視線を夜空に追った。  ……いた!  テッドの頭上遥か高くから降下してくる、“白い蜂”。    シオンの放った白い斬波は、テッドの剣から滲みだした防禦障壁に阻まれて爆発した。    だがシオンは、波動が放った閃光と轟音に紛れ、テッドの頭上を取ったのだ。  恐らくは、彼の秘剣が奇妙な障壁に打ち消されるのも、すべて計算していたのだろう。  風を切る音さえ聞こえそうな勢いで、星を背景に降ってくるシオン。  狙いはテッドの首、ただ一つ。  固唾を呑むエルドレッドの拳にも力が入ってしまう。    そして瞬き二つ。  上空から降下してくるシオンが小太刀を抜き払おうとしたその瞬間、テッドが地面に突き立てた剣をわずかに動かした。  刹那、大剣で回る車輪が早さを増した。  と、テッドの前に貼られていた虹色の防禦障壁が、一瞬にしてどす黒い紫色に変色した。  形もうねうねと変わり、五本の指を備えた巨大な手首へと変貌する。    その巨大な黒い手が猛然と向きを変え、空中のシオンへ向かって掴みかかった。
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