第三章

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「まだそんな仲やない」 「でも長い付き合いだと希美ちゃんから訊きましたけど」 「長いだけでまだ判らん」 「巳絵(みえ)さんは黒川さんと付き合ってるんですね。希美ちゃんから訊きました」 「黒川くんか」  睦夫は浮かぬ顔をした。希美ちゃんの話しだと「睦夫さんは最初の頃に黒川さんに話し掛けた時に『気が散るさかい静かにしてくれ』って言われた。それが今も心のどこかで尾を引いてるのらしい」と聞いた。それであの男がどうも目敏い存在だと察して何かあるんですかと訊いてみた。 「いや、別に・・・、まあそこそこ彼なりに描いてるからこの仕事は性格は関係ないから気になるのは俺だけかも知れん」とこの話から職場の二階に居る他の男に切り替えた。他は黒川に比べて腕は熟成しているせいか細かい事は言わない。そして休み時間には愛想良く喋る者も多い。睦夫さんは黒川は他の者よりは今はおとなしいがネコ被っとる、と黒川をめざとい奴だと指摘した。やはり睦夫さんも野村と同感だった。 「それよりこの仕事を本格的にするんなら二階の一番奥に居る橋場はんに配色、色の調合を憶えた方がええ。工場では深山さんが先生に代わって取り仕切ってるけど、橋場はんの方が技術的にはええもん描かはる」 二階から時々降りて来ては奥の流し台で勝手に色を作っていたのは知っていたが、誰も気にせず各自作業に没頭しているから不思議な存在だった。それが此の時に睦夫さんから友禅では先生に次ぐナンバーツーの存在だと知った。それは深山さんが得意先や下請けの職人等の外回りも兼ねているせいだと解った。その使い分けは先生が決めたらしい。先生は橋場さんを見込んでるらしい。野村にはその理由は分からず批評も難しかった。他に一階には二人の男の人が居たが聾唖者で二人とも黙々と描いていた。彼らとは手真似で仕事の遣り取りするだけだから分からない。先生は彼らでも絵心の在る者なら誰でも採用する。そこから個性を引き出す姿勢が覗える。 「先生は分け隔てをしないから、長女の君子さんへの感情の乱れも直ぐに戻された。目的さえ確かなら大きくぶれずに生きてこられ、それを実践されている」 確かに以前の会社と違ってみんな生き生きしてる様に見えた。絵と云うものがそれほど心を豊かにさせるのだろうか。この疑問は今解けなくても先生を見る限り存在理由がはっきり出来る。自分の進む道を曲がりなりにも捉える切っ掛けになる、と睦夫さんの話から心の片隅に絵心が芽生えた。 「寮では一番若いこの下の部屋に居る白井義則と云う奴は君より一つ下だから本宅の寮の女の子では歳が合わないせいかみんな子供扱いしてまともに付き合っていないけれど雅美(まさみ)ちゃんだけが一生懸命にギターを習っとるわ」  これが今日のコーヒータイムで睦夫さんから知り得た情報だった。
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