第一章

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 社会人として第一歩を記したばかりの彼には余りにも精神的苦痛が著しい。死が脳裏をかすめる程の絶望感を味わっていた。だが今まで辞めたいとは恐れ多く、ただ一日でも多く休みたいとの思いだった。その延長に在るのは世間からの社会人としての抹殺だろう、でもそれぐらいで死にたくない何とか逃れたい。今思えばこれが救いだった。この程度の事なら世間なんて無視すれば良い。全くの笑い話だが、当時は世間の裏表を知らない若さからくる深刻な心の病に犯されていた。  どこを歩いているのかさえ眼中になく、まさに彷徨っていると云う言葉は、この感覚の為の造語にしか思えなかった。  絵こころの有る人求む、と云う張り紙が天界から滴る蜘蛛の糸に見えて来た。こんなのは高校への求人募集には無かった。その家の呼び鈴に縋り付いた。 「ハイハイハイ」と呼び鈴を掻き消すような、忙しな人影が磨りガラスに映ると、押しボタンから思わず手を退けた。いたずらで近所の呼び鈴を押して駆け出す子供の様で情け無くなったが、足は張り付いたまま動かない。その内に引きガラス戸が開き何でしょうかと若い女性が顔を上げた。 「あのおー張り紙を見たんですけど」と心細いほど消え入る様な声で云った。彼の不安を打ち消す様に、彼女は愛想笑いを浮かべて応接間で彼を待たした。そこへ五十がらみの気さくそうな初老の男がカジュアルな服装で入ってきた。     
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