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第五章
初夏の爽やかな陽射しの中で睦夫さんと白井の三人で近くの馴染みの喫茶敷香へ行った。テーブル席が四つ、カウンター席が五つ十数人で満席になる店だ。三人はカウンター席に並んでいた。店はマスターとバイトの女の子の二人だけだ。表通りにはもっと喫茶店はあるがここは穴場で先生もよく利用する。豆も此処で仕入れていた。
「マスターは樺太の出ですか」
最近見掛ける様になった野村から直接言われてマスターは驚愕した。それ以上に睦夫さんが驚いた。
「野村くん誰に訊いたん?」
「こないだ先生に、ほれあの深山さんから新作の柄を頼まれたでしょうあの時に」
「先生、樺太のこと何か言ってました?」マスターが言った。
「別に何も」
「敷香はだいぶ北やさかい激戦やったんちゃうの?」のりちゃんが訊いた。彼は自分に興味を惹かせるために変わった話題には乗ってくる。
「それが敷香の遙か北の気屯で終戦になりましたからでもそれからが大変だったんですよ停戦を無視して九月までソ連は攻めて来ましたからねぇ」
「それって何んかおかしいんちゃうの」と白井が言った。
あの惨劇をそんな軽いノリでは答えようがないとマスターは言いようのない自分への怒りを抑えて首を振っていた。
「のりちゃんええかげんにしとけマスター困ってるやん、マスター脇に食器の洗いもん有るんちゃう」
「さっき迄奥様連中が井戸端会議をしてまして、で溜まってるんです」
「こっちは適当に暇つぶしなんやから仕事したら」
睦夫さんに言われてマスターは苦笑いし端に移動した。野村にはカップを洗うマスターの手元がなぜか寂しく見えた。のりちゃんはお構いなくたばこに火を付ける。
「睦夫さんはあの柄の色合わせ自分で遣ったんですか」野村が言った。
「先生が作らはった新作や、ほんまやったら橋場さんか深山さんが遣らはる柄や」
「そうなんか、のりちゃん」
白井義則は終わりの則を採ってのりちゃんと呼ばれていた。
「まあなぁ、しかし色まで任せるとは。睦夫さん出世しゃはったなあ」
白井が野村の問いに答えた。
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