一幕 成人の日

1/2
6人が本棚に入れています
本棚に追加
/13ページ

一幕 成人の日

 成人の日の積雪は十年ぶりだそうだ。  曇天の下、辺りを見回せばいたるところに着物や奇天烈な仮装を施した齢二十が行き来している。気温は当然の如く一桁、降雪も相まって殺人的な気象だ。よく裸足に下駄で歩けるものだ。見てるこっちが凍えてしまいそうである。  全くもって理解できない、何が人をここまで動かすのだろうか。成人の日という、所謂「たった一世代の青年らが大人となったことを祝う」趣旨がそこまで大切なのだろうか。  大人となったことを素直に喜べる人間では私はない。寧ろ、対極に位置すると言ってもいい。子供のときに抱いていた夢、理想と言った妄想がある日を境に急激に消えていき、二十歳を迎え社会人としてデスマーチを奏でる頃には幼き日に抱いていた夢がどんなものかも忘れて、下水路の鼠色に映った世界で嘆きながら生きているのが現状だ。そんな私から言わせれば成人の日など「素晴らしき夢想をいつしか完全に捨て、鎖に縛られた人生を歩き出す大人となったことを悲しみ、泥にまみれた先人が「ようこそ、こちら側へ」と笑顔で歓迎する日」であり、故に今日、成人となって祝われるはずの私は凄惨な現実を前に、物珍しい白一色の世界を眺め感嘆していた。  自分が異常であることは自覚している。割合から見れば、こんなひねくれものよりも素直に成人になったことを祝える人の方が多いだろう。どちらが正しいといえば私は私自身が正しいとは微塵も思ってないし、そもそも“正しい”なんてもので区別できるものではない。ただ後者の方が圧倒的多数で一般的なだけだ。  それだけで、人は圧倒的少数で異常な私のような前者を頭っこなしに否定する。正しくないーーそう考えるべきじゃないと圧倒的多数で主張し、結果“除け者”という烙印を押されるのだ。  今までの人生、特にここ後半の十年間で私はずっと私と同種であるはずの人間に怯えていた。圧倒的少数で異常なことを言ってしまったら、もしかしたら私は知らず知らずのうちに相手から“除け者”の烙印を押されているかもしれないからだ。しかも、表面上には一切出さずに。  それが恐くてしょうがなくて、人と関わることが少なくなっていたのだ。相手から話しかけられても、人=恐いの式がどうしても頭から離れず距離をとってしまっていたのである。心のうちでは独りでいたくなくても、人と関わり合いたくても。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!