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※あくまでも当社が考える歴史認識です。
大江定基(寂照)や蝉山寺、権蝉宗、黒羽上人の実在などについて、現在では数多くの歴史学者達から否定されているところが多いのは弊社もよく存じ上げております。
しかしながら、創業当時は明治時代と云う現在のようにインターネットなども無く情報を得にくい時代背景があったことや、創業者・西条四十夫の意志を尊重するため、此処では敢えて我が社の社史に従った記載を行わせて頂いております。
・大江定基(寂照)の歩み
〇応和2年(962年)頃、大江定基(俗名)が公卿・大江斉光の子として生まれる。
〇時期不明、大江定基が三河守として赴任する際、元の妻と離縁し、蝉殻御前を任国に連れて行く。
〇永延2年(988年)、蝉殻御前死去。今昔物語集に説話が書かれる。大江定基は寂心(=出家後の慶滋保胤)のもとで出家(名を寂照)し叡山三千坊の一つ如意輪寺に住む。その後横川で源信に天台教学を、仁海に密教を学ぶ。
※長保5年(1003年)、宋に渡海。その後、日本に帰国しないまま長元7年(1034年)に没したことが正史とされている。
『弊社の歴史認識』
〇長保2年(1000年)、武蔵野国(現在の埼玉県蝉山市)に蝉山寺を建立し、権蝉宗の開祖となる。その際、葬る前に残しておいた蝉殻御前の垢や皮を集めて蝉人形を製作する。
〇長元2年(1032年)に蝉山寺にて没する。
鎌倉時代になると、肉親の死を受け入れられない者達の間で権蝉宗は信仰され、数多くの蝉人形が鎌倉時代に制作されたそうですが、鎌倉幕府倒幕の際、足利尊氏らによってほとんどが破壊されてしまいました(逆に足利氏と結びついていたという説もあります)。
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