https://www.semi-doll.co.jp/cicada-doll/

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・蝉人形ってそもそも何? 『蝉人形の歴史』  蝉人形(せみにんぎょう)は日本の伝統工芸品です。  一般の方は蝋人形(ろうにんぎょう)の蝋をセミと読み間違えたと誤解する方が多く、認知度が低いことは否めません。  菊人形は菊の花や葉を細工して人形の衣装としたもので、市川崑監督の『犬神家の一族』にも出てくることで有名です。  蝉人形は権蝉宗(ごんぜんしゅう)が独自に編み出した彫像方法であり、江戸時代に確立された生人形(活き人形)の見世物の原形となったものです。  『今昔物語集』に『参河守大江定基出家語第二』という話があります。平安時代の三河守、大江定基(おおえのさだもと)が主人公の説話です。  大江定基は、慈悲深く才能豊かな男で三河守に任じられますが、本妻と離縁して若い美人を正妻にします。ところが、この美人妻は重病を患って結局亡くなってしまいます。定基は彼女の死を受け入れられず、彼女の死体と添い寝をしていました。数日後、口付けをしたら酷い死臭がして耐えられなくなり、ようやく定基は彼女を埋葬し、出家したと云います。定基は名を寂照(じゃくしょう)とし、天台宗の僧として知られます。  この亡くなった若い美人妻の名はあまり知られていませんが、今昔物語集にも載っていない話の続きがあります。この美人妻は蝉殻御前(せみからごぜん)と云う名前で、蝉殻御前は病床に臥しても定基を愛し、次のように語り掛けました。 「蝉が殻を破るように、私の遺体は新しい命へ生まれ変わるための殻として残るのです。私の命は滅びても、身体は殻として現世に残ります。貴方は、此岸に残した私の殻をいつまでも愛し続けて下さい」  こうして定基は蝉殻御前の美しい殻を残すため、蝉人形と称される彫像技術を体得しました。蝉が成長する時に抜け殻を残す要領で、全身から出る垢と皮を集めて固めた人形を創り上げました。実際に埼玉県蝉山市に在る蝉山寺には、寂照が残したとされる蝉殻御前の蝉人形が現在でも保存されています。  その後、蝉山寺は鎌倉仏教として知られる『権蝉宗』を開いて、数多くの蝉人形が鎌倉時代に制作されましたが、鎌倉幕府倒幕の際、ほとんどが破壊されてしまいました。  しかし権蝉宗や蝉人形の技術は滅びず、形を変えて残り続けました。蝉人形は活き人形の由来とされ、江戸時代末期から明治時代になると精巧に制作される蝋人形の技術も取り入れました。
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