act.29

10/10
66人が本棚に入れています
本棚に追加
/123ページ
「なんのために? 郁食わないだろ。うちにだったら別に気を使わなくてもいいのに」 「優月さんにあげる」 「……優月にぃ?」  思いもよらない人物の名前に、俺は素直に驚いた。 「優月さん、蕗の作ったチョコレートのシュークリームが好きなんだって……ノエルが教えてくれた」  ノエル、と言った郁の横顔は少し切ない。でもそれは一瞬で、すぐにいつもの郁に戻る。 「花、見繕ってくれるんだろ」 「……え?」 「俺たち……謝らないと、優月さんにも。ちょっと時間、経っちゃった、けど」  店、ぐちゃぐちゃにしちゃったから、と彼は言った。  もしかして、俺の誘いに乗ったのってこのためかよ。俺と会うことが目的じゃなくて、優月にぃが目的かよ。お前に花を見繕うんじゃなくて、贈る花を見繕うのかよ。  そう思うと思い切りショックだった。  やっぱお前の中の俺のポジションなんてそんなもんかよ。  あはは、と渇いた笑いを零す。郁の背中に回した手がずり落ちそうになった。  郁が俊敏に俺の方を見てくる。  なに、と自嘲しながら首を傾げたら、腕、とぽつりと彼が言う。  腕がなんだっていうんだよ。 「……寒い」  蚊の鳴くような声だったけど、すぐ隣にいる俺には鮮明に聞こえてきた。  郁は目を逸らしてすたすた歩いていく。髪の隙間から覗く耳が真っ赤だ。  寒さのせいじゃない、だろ。  なあ。  めっちゃ愛しい。  俺の気持ち受け入れられてるのかな。  さっきよりも深く彼の背中を抱いて、頭をこつん、とぶつけてにか、と笑ってみせる。 「行こう。俺たち謝ろ! 花、ちゃんと見繕う。金は俺が出す」  郁はびっくりしたように顔を上げて俺を見た。  うん、と彼がはにかむ。  俺、こんなに優しい、郁が、大好きだな。
/123ページ

最初のコメントを投稿しよう!