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グラスの中で、溶けた氷がカランと鳴いた。ゆっくりした時間が流れる店内には、雰囲気にマッチしたジャズが流れている。静かで温かみのある照明は、会社勤めによって荒んだ私の心を落ち着かせてくれる。そんな雰囲気が好きで、私はこの店に通っているのだ。
「お隣、いいですか」
一人の男が、そう話しかけてきた。どうぞ、と返すと男は椅子に腰をかけて、メニュー表を眺め始めた。初めて見る顔だった。それにしても、我ながらなんて愛想のない女だろう。もっと愛嬌があれば、もっと周りと関わりを持とうとしていたならば、こんな歳になってもまだバーに通い続けることもなかったろうに。母の「孫の顔が早く見たいわねえ」という言葉がフラッシュバックして、ため息が出た。
「えっと、彼女と同じものを」
男がそう注文すると、マスターは頷き、後ろの棚からグラスを一つ取り出してなにやら準備を始めた。
「……結構甘いですよ、このリキュール」
「そうなんですか。いやその、美味しそうに飲んでいたので」
男は、そう言って軽く笑った。私の手元にあるこのアップルリキュールは、低い度数とすっきりとした味わいが売りの一品だ。しつこすぎない甘さの中に林檎の甘みをしっかりと感じられることから、ジュースのようだと女性から人気を集めている、らしい。そんな酒を好んで飲んでいる私もまた、所詮は女なんだろう。……そんな酒が男の口に合うだろうか。
「よく来るんですか?」
「え?」
「よく来るんですか?このお店」
「ええ、まあ」
やたらと話しかけてくる男に、戸惑いを隠せなかった。もしかして私は今口説かれているのだろうか。いやいや、流石に自意識過剰か。手元の酒に秘めた期待と不安を溶かして、体の奥底へと流し込んだ。
「初めて来たんですけど、いい雰囲気ですね」
「はい」
私のその相槌を最後に、会話が途切れた。男に申し訳なさを感じる反面、不思議と無理をして会話を続ける気にはならなかった。
と、そこでタイミングよくテーブル前にグラスが置かれた。マスターの手によってそこに大きなアイスボールが入れられ、酒が注がれていく。とっとっとっ、と音を鳴らしながら透明なコップを満たしていくその酒は、私と同じアップルリキュール。
「どうぞ」
寡黙なマスターの渋い声が響き、グラスは男の前に差し出された。男はそれを手に取り、まるで試験管を扱うように慎重な手つきで、グラスを口元へと運んだ。
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