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無職になって一週間──今日も外は憂鬱な程の快晴だ。しかし人間というものはフレキシブルな生き物だ。コーヒーを飲みながら、妙子はふと気づく。還暦の朝の苦さとは違う、コーヒーそのものの苦味を微妙ながらも楽しめるようになっていた。
妙子は思った。
相変わらず鈍よりと、胃もたれのように存在する憂鬱を、どうにかして消化しなければいけない。助けは何処からも来ないのだ。
還暦などと人が脅しても、本人にとってはたかが昨日の続きではないか──ドアを開けるしかなかった。
久しぶりに化粧をしてみた。口紅は少し明るめの色を選んだ。
玄関ドアを開けると、外には初見のような春があった。春の日は、こちらが頑なに拒否しようとしても、容赦なく人を癒しにかかって来る。太陽の慈悲に逆らう理由は無かった。
「少し歩いてみようか──」と足を一歩前に進めた。
近くの川辺に沿った遊歩道を歩く。生暖かい春風が、妙子の心と体を撫でるように通り過ぎていった。自分が自然の一部になったような心持ちがした。前を見るとどこまでも遊歩道は続く。このまま歩けば、隣り町まで、いや隣県まで、いや見知らぬ国まで、どこまでも行けるような気がした。
「さあ、どこまで歩きますかね」妙子は自分に語りかけた。
「行けるところまで──」ともう一人の自分が答えた。
「じゃあ、行きますか」「行きましょう」
何だ、意外と私、元気じゃないか──。
そのうららかな春の日は、目出度く人生の二幕への<再生日和>の日となった。
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