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大切な人
桜の花びらが春の暖かな風に舞い、小さな緑の葉が写し出される頃、人々の心には新しい希望と夢が膨らみ始める。
春の日差しがふりそそぐ中、五年生になった健太は学校までの道のりを元気に走っていた。
健太にとって、この一年は決して忘れることの出来ない日々だったが、でもそれはみんな些細な出来事だった。
子供達が集まってサッカーをして楽しんでいる、ごく当たり前でどこにでもあるような光景なのに、健太には特別なものだった。
”ありがとう“なんて誰もが当たり前のように使う言葉なのに、健太には特別な言葉で、給食のおじさんがいてくれたからこそ、そんな当たり前のことが特別なことになったのだった。
どんなに綺麗な物も、どんなに素晴らしい景色も、そしてどんなに素敵な笑顔さえも見ることが出来なくなってしまった人が、自分の成長を生きる励みにしていてくれている。
一人で寂しかった時に、いつも笑顔で見守っていてくれた人のことをいつも心に思いながら、健太は毎日の生活を送っていった。
嬉しいこと、悲しいこと、そして悔しいこともあった。でも、どんな時でも健太の心の中には、あの人が教えてくれた”魔法の言葉“が刻まれていた。
そして時は流れ、健太が六年生になった頃には、”練習の鬼“と言われただけあって、亮太と同じように周りの人から注目される選手へと成長していて、サッカーを始めるまで一人で寂しそうに校庭の隅っこに座っていた頃に比べれば、今の健太はまるで別人のようだった。
でも、毎朝給食室に挨拶に来ることはだけは、あの頃から変わることはなく、そして沢山の思い出が詰まった朝日小学校を卒業する日は、あっという間に訪れた。
三月、健太達の卒業式を翌日に控えた朝日小学校の職員室では、健太のいる六年一組担任の橋本先生が明日の卒業式の最終確認をしていた。
「橋本先生いよいよ明日卒業式ですね、何かお手伝い出来ることはありますか」
「加藤先生、これだけ整理すれば終わりますから大丈夫ですよ、ありがとうございます。それよりちょうど良かった、これ見てくださいよ」
橋本先生が加藤先生に手渡したのは健太が転校して来た四年生の時の健康診断表だった。
「加藤先生も山崎くんにはかなり思い入れがあるでしょう。山崎くんこの三年間で15㎝近く背が伸びているんですね。でも、まだまだあの子は伸びますよ」
「そうですよね。高橋くんだって背は伸びているけど、もう高橋くんより大きいですからね」
加藤先生がにこやかな顔で書類を見ていると、橋本先生は二枚の紙を加藤先生に手渡した。それは卒業証書を受け取った後、壇上で将来の夢などを語る言葉が書かれた健太と亮太の紙だったが、二人が書いた紙を見ながら思わず胸が熱くなってしまっていた。
「加藤先生にとっては、元担任というよりサッカーのコーチとして嬉しいコメントですよね。明日の卒業式は担任の私達より加藤先生の方が泣いちゃうかもしれませんね」
「橋本先生、実は私もそんな気がしているんですよ」加藤先生は照れ臭そうにしていた。
「ところで加藤先生、あの方に連絡は…」
「はい、きっと皆ビックリしますよ」
その日の春の風と暖かな日差しは、今日巣立ち行く健太達を祝福するかのように爽やかで、澄んだ青空が一面に広がっていた。
あの時感じていた暖かな春の風が健太のほほを吹き抜けていた。
はやる気持ちを抑えきれない健太は、一人で先に家を飛び出したが、学校に着いた時まだ学校には友達は誰も来ていなかった。静かな校舎の廊下を一人で歩いていた健太は給食室の扉の前で立ち止まり何故か懐かしそうな気持ちで見ていた。
「今日は誰も居ないしな」
そう思った健太が振り返って戻ろうとすると給食室の中で何か物音がしたのに気が付き、戻って給食室の扉をそっと開けてみると突然の大きな声に健太はビックリしていた。
「健太くん、卒業おめでとう」
給食室には普段白い調理服を着て美味しい給食を作ってくれていた給食室の人達が、今日は黒い服を着て健太のことを皆で向かえてくれていて、その一人の女の人が小さな花束を持って来ると健太の胸のポケットに飾ってくれた。
「健太くん、卒業おめでとう。朝日小学校の子供達は皆ここに挨拶に来てくれるけど、それは健太くんが毎日給食室に来てくれていたからだよ、今日だって絶対来るって思っていたから皆で待っていたんだ。健太くん本当にありがとう、健太くんが来てくれて私達も毎日嬉しかったよ。加藤先生が私達にも卒業式に出席して下さいって言ってくれたから、今日は皆でお祝いに来たからね」
健太は給食室の人達の大きな拍手に包まれていた。
卒業式の会場になっている体育館には沢山の人が集まり、お父さんやお母さん達も子供達が元気な姿で入場して来るのを心待ちにしていた。
「只今より朝日小学校卒業式を始めます」
副校長先生の案内で卒業式が始まり、穏やかな音楽が流れる体育館に健太達が入場して来るとお父さんやお母さん、先生達も大きな拍手で子供達を出迎えていた。
健太も在校生の間を通り自分達の席に向かっていたが、ふと視界に入った先生達の席の一番隅に、加藤先生の隣りに座っている黒いサングラスのようなメガネをかけた人が居るのを何となく見ていた。
自分の席に着き最初の校歌斉唱が始まるその時、健太の全身をもの凄い衝撃が流れた。
「あ…あの人は」
健太の視線に気が付いた加藤先生も目を真っ赤にしながら横に座っているその人に、今の様子を説明するように耳元で話し掛けていた。
健太の目からはもう涙が止まなかった。
卒業式は進み、壇上では一人一人に校長先生が卒業証書を手渡し、卒業証書を手にした子はその場で振り返るとそれぞれの思いを語り、ある子は学校の先生、またある子はお医者さんになりたい等と一人一人元気よく話していた。
「高橋亮太くん」
名前を呼ばれた亮太は卒業証書を受け取ると振り返り「僕は将来オリンピックで必ず健太と一緒に金メダルを取ります、そして健太と一緒にワールドカップに出場して、必ず優勝します」
亮太の発言に式場内はどよめいた。言ってみれば小学生の子供の夢の話にすぎないが、亮太が言うと本気で応援したくなるのは、亮太の持っている存在感なのか、亮太は大きな拍手で包まれていた。
そんな亮太の余韻がさめやみ、卒業証書授与式が続く中、真っ赤な目をした健太は席に座り自分の名前が呼ばれるのを待っていたが、健太は加藤先生の隣にいる人から目を離すことが出来なかった。
「山崎健太くん」
「はい」
壇上に上がった健太を皆が注目していた。
健太は一瞬加藤先生の方を横目で見た後、校長先生の前に歩き出し、その時加藤先生は隣に座っている人に耳打ちするように話し掛けていた。
校長先生は卒業証書を読み上げ、差し出すと両手でしっかりと受け取り、健太は振り返った。
今や亮太と同じ位注目されている健太がここでどんな夢を語るのか誰もが楽しみにしていた。
「僕は…」
静まり返った場内の視線は健太に注がれていたが、健太はそのまま黙ってしまった。
最初は誰もが緊張して話すことを忘れてしまったのだと思い和やか笑い声も聞こえていたが、大粒の涙を流している健太に気付くと場内は異様な静寂に包み込まれてしまった。
「山崎君、今思っていることを話せばいいんだよ」校長先生の優しい声がマイクを通じて聞こえてきていた。
少しの間体育館は静まり返っていたが、健太は顔を上げて話し出した。
「僕が…、僕が朝日小学校に転校してきた時の身長は145センチでしたが、今は169センチです。体重は28キロでしたが、今は51キロです。今ぼくは紺色の服を着ています、僕の髪の毛は今短いです。僕は…」
健太はそんなふうに自分のことをずっと話続け、それは「今の自分はこうです」と誰かに話し掛けているようで、そんな健太の話を聞いていた亮太は思わず立ち上がり辺りを見回し、そして加藤先生の横に座っている人に気がついたのだった。
少しの間黙っていた健太は再び話し出した。
「僕は転校して来てからずっと友達が出来ずに一人ぼっちで寂しかったです。本当は皆と一緒に遊びたかったし、皆と一緒にサッカーをやりたかった。でも皆サッカーが上手で、へたくそだった僕は皆の中に入る勇気がなかったです。ずっと一人で寂しかったけど、そんな僕に優しく声をかけてくれた人がいました。その人のおかげで僕は皆と仲良くなることが出来ました。その人のおかげで僕はサッカーを始めることができました。僕は亮太くんと一緒にオリンピックで金メダルを目指します。僕は亮太くんと一緒にワールドカップで優勝を目指します。だから…、だからこれからも僕のことを見ていて…、これからも僕のことを〝聞いていて〟下さい。給食のおじさん、ありがとうございました」
健太の話を聞いて卒業生達はザワめき出し、そして加藤先生の隣に座っているその人に気付くと皆一斉に立ち上がり、それぞれに「ありがとうございました」と感謝の気持ちを伝えると、会場内はそれまでにない大きな拍手で包まれていた。
あの日、給食のおじさんが教えてくれた”魔法の言葉“は、健太の心の中で何度も何度も、繰り返されていた。
そして、健太は朝日小学校から羽ばたいていきました。
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