CHORNO-BOG

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 ワインの甘く濃厚な香りが鼻腔を満たしていく。    次第に、価格という絶対的な価値に裏打ちされた味覚へのダイレクトな刺激が口内に広がり、やがて解けていった。わたしはもう一度、手のひらの上で揺れるモンラッシェに淡く口付けをする。洗練された甘美な味が、再び舌の上で蘇った。 「未玖」わたしは背後に立つメイドに呼びかける。「このモンラッシェは何年ものだったかしら」 「一九八三年でございます」  聞きなれた、酷く冷淡な声だった。だがそれがいい。わたしは微笑んだ。  窓の外の景色が目に入る。どんなに美しい女もいつかは飽きてしまうように、この夜景もすっかり見慣れてしまった。光り輝く東京の夜を一望できるタワーマンションの二六階、つまり最上階。わたしにとって意味があるのは、その事実だけだ。 「未玖」わたしは再び、彼女の名前を呼んだ。「もう帰っていいわ。しばらくして、わたしも寝ようと思うの。明日も早いしね」  ガラスに映った未玖が頷いたのを確認して、わたしはグラスをテーブルに置いた。ソファの背もたれに寄りかかり深く沈むと、自然と視線が上へ向かう。  吹き抜けとなっているリビングダイニング部分の天井から蜘蛛の糸のように垂れ下がったシャンデリアの明かりが目に入る。わたしはその眩い光に目を細めた。 「社長」未玖の声が背後から聞こえてくる。「それではわたしは帰らせていただきます。おやすみなさい」 「ええ、おやすみ」答えて、小さく手を振る。未玖の反応はなかった。  しばらくして、遠くで扉の開く音が聞こえた。エレベーターが到着したらしい。ちなみにこの最上階は全てわたしが所有していて、エレベーターは専用のキーがなければここまで上がってこれないことになっている。そのキーを持っているのは、わたしと未玖だけだ。  やがて扉が閉まり、エレベーターが降りていく音が聞こえてくる。未玖が帰宅し、わたしはこの家に一人になった。そのことに若干の安堵を感じていたことに気がついて、わたしは苦笑した。その時だった。  ふと、突如として強烈な眠気を感じた。体に力が入らない。違う、これはただの睡魔とは違う。何かがおかしい、と気がついた頃には遅かった。テーブルの上、ワインの注がれたグラスを最後に、わたしの視界は閉ざされてしまった。
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