裕美子

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 どうやって屋上に出たのかもわからず,そのままフェンスを越えた。  グラウンドではまだ部活をしている生徒達も見えた。屋上から見える住宅街の屋根の向こうに自宅があるが,もうそこに帰れないとわかっていた。  なにも考えられず,なにも思い出せなかった。わかっているのは,全身が切り裂かれたように痛み,知らない部屋の電球が揺れている光景が目の前でチカチカと現れては消えた。  青白い月が頭の上に見え,すぐに夕方になるのがわかった。家ではお母さんが晩ごはんの支度をしているだろう,弟はゲームをしているだろう,お父さんは遅くまで帰って来ないだろう,と今日一日のこれからのことをぼんやりと考えていた。  幼いころから大好きだったウサギの人形を思い出し,死んだお婆ちゃんが買ってくれた今はもう着れないお気に入りのスカートをどこに仕舞ったのか考えていた。動物が大好きで猫を飼いたかったが,父親が反対し飼わせてもらえなかった。いつか飼いたいと思い,猫の動画をよく観ていた。  暖かい部屋で家族みんなで過ごした日々,一緒にご飯を食べたこと,一緒に買い物に行ったこと,みんなで映画を観に行ったことを思い出していた。これから先もずっと続くと思っていた日常のはずだった。  しかし,これから先を想像しても,そこには裕美子の存在はなかった。  ゆっくりと(かかと)をあげると,自然に身体が前に出た。両手を広げると,全身の痛みが裕美子の心をえぐった。  抑えきれない涙が溢れ,湿っぽい布団の上に寝かされている姿を思い出した。  男が面倒臭そうに咥え煙草で裕美子を貫いている間,律子は怒りにも似たおぞましい形相で人形のように無反応な裕美子を睨んでいた。  裕美子の身体が完全に宙に浮くと,お母さんの笑顔,ゲームで負けて悔しがる弟,お風呂上りに美味しそうに発泡酒を呑むお父さんの姿が浮かんだ。もう二度と見ることのできない家族との別れと,すべてを奪った律子に対する怒りが裕美子をいっぱいにした。  一瞬で目の前がアスファルトだけの灰色の世界になった。そして,次の瞬間,裕美子の身体は頭からアスファルトに吸い込まれていくかのようにグチャグチャになり,辺り一面を肉塊と血の海にした。
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