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二階の自分の部屋に戻った令子は大きくため息をついた。窓の外にはライトアップされた明石海峡大橋が静かな夜の海を紫の翳で染めていた。その幻想的にも厳かな煌めきを彼女は恭しく眺めた。そのとき一瞬、窓の外が昔両親と観光で行ったエーゲ海の夜景のイメージと重なった。しかし、この瀬戸内の海の夜景は、もどかしく居た堪れない令子の気持を、より扱い難い複雑なものに変えた。『もし自分に恋人でもいれば、こんなにもあの女を嫌うことはないだろうと思う。むしろ素直にあの女を受け入れるかもしれない。父と母の離婚は、結局のところ夫婦二人だけの問題なのだということは分かっている。あの女に勝る強い絆が母にはなかったということにもなる。そうだとしても、なぜあの女はあんなに煌びやかなのだろう。近寄る者を惑わせ破滅すらさせそうだ。それが魅力と言うものなのか。わたしは到底及ばない。父はあの女と恋に落ち、虜になった。いともたやすく。それが怖くてならない。わたしにはどうしても、それが禁断の関係に思えて仕方がない。あの女の正体が知りたい。……もう十時か。もしかして、今夜は、この家に泊まる気なのだろうか。今、二人は、なにをしているのだろう?…』
令子は、一階の様子が気になってきた。とはいえ、理由なく見に行くわけにはいかなかった。
『そうだわ、シャワーを浴びるために一階に降りればよいのだ。シャワールームに行く途中、二人の様子を覗き見ればよいのだ。見つからないように、静かに歩くのだ』
令子はそっと、音を立てないように、一階に降りていった。だが、しーんとして人の気配はなかった。ところが、玄関脇まで来たときだった。
彼女は見た。いや、見てしまった。玄関扉の側で薄暗い中、父親と加納瑠梨が抱き合い、キッスをしているのを。
令子は呆然となり立ち尽くした。身じろぎもせず、目をつぶり、抱き合う二人は、令子の存在に気付かない。令子の目には、その二人の姿態は、づつと前からそこに佇んでいるブロンズ像のように映った。美術館の静寂な展示室のように、そこには得も言われぬ厳かな空気が漂っていた。しかし、ときたま、息継ぎをするのだろうか、二人の胸の動きがかすかに乱れると、その二人の姿態は、厳かの向こう側にある別のものを彼女に見せつけて止まなかった。彼女にはその別のものが何なのか理解出来なかった。ただ、そのとき、父親は加納瑠梨より遥か年上なのに、彼女には、なぜか、父親がこれほど幼く見えたことはなかった。彼女は、あからさまな年齢の逆転を目にしていたのだった。次第に、その二人は、まるでオーギュスト・ロダンの彫刻、ダンテの「神曲・地獄篇」にある、フランチェスカという妻が、パウロという歳若い義理の弟と接吻に涵たる禁断の恋のブロンズ像と重なっていった。そして、じっと見入っているうちに、彼女は、二人の周りに目には見えない防塁が張り巡らされつつあるのを察知した。
『あれには鋭い鐵棘が括り付けてある。父を逃さないよう、加納瑠梨という得体の知れない女が、巧妙に狡猾に張り巡らせている幽閉の防壁なのだ。恐らく、不倫にも似た許しがたい、それでいて、秘密の生暖かい薔薇の香りを放つ遊郭を囲う廓なのだ。あの廓は、父を外の世界から永久に隔絶するに違いない。隔絶した後には、もはや、廓は廓ではなくなり、外に居るわたしを威圧し平伏させる難攻不落の居城に変容するのだろう。あの女が城主の。わたしは、直ちに父をあの廓から救出しなければならない・・・・』
令子は焦った。沈黙の情景が足音を立てて崩れていく。しかし、どうすることも出来なかった。令子の心の奥では義憤の溶岩が限界にまで滾っていた。そして遂に、その溶岩は歳若い低い稜線をやすやすと超え、あまりの勢いで飛び散った。彼女は鬼の様な形相でキッチンルームへ走って行った。制御の不能となった彼女の震える細い右手が流し台の周りを乱雑に動いた。その拍子に、壁に掛けられていた洗いざしの柳包丁を掴むと、彼女は、それを両手で握り直し、二人の元にまっしぐらに戻って行った。そして、目の前に聳えんとする廓をズタズタに切り崩そうとして二人に向かって突進していった。そのときだった、父親の閉じていた瞼が開き、令子をとらえた。
「やめないか! やめろ!・・・・」
父親は加納瑠梨の身を守るように、自分の背中を令子の方に向けた。その瞬間だった、令子の持つ柳包丁の刃先が父親の背中に突き刺さった。見る見るうちに父親の背中は鮮血で染まっていった。
「なにをするんだ、令子・・・・」父親はその場に倒れ込んだ。令子は泣き崩れ、床に四つん這いになった。だが、加納瑠梨は平静だった。
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