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「令子さん、なにをするのよ。・・・・・近くの救急外来病院に電話しなさい。父親が酒に酔っ払らったはずみに台所で転び、肩に包丁が刺さった。出血がひどいのです、とでも言いなさい。車で病院に行くのです。わたしが運転しますから。救急車は止した方がいいから」
令子は泣く泣く病院に電話した。その間、加納瑠梨は父親、雄平の肩の傷口に自分の掌を当てていた。
「どうだった?」
「直ぐに来るようにと言っていました」
令子は父親の様子が気になって仕方がなかった。
「心配しないでいいわ、偶発的な怪我ということにしておきますから。わたしに任せなさい。救急箱はどこにあるの。あるのなら持って来て。雄平さんは歩けるようだし、たぶん傷口を何本か縫うだけのことでしょう」
令子が救急箱を持って来ると、加納瑠梨は、てきぱきと傷口に消毒液を塗り、ガーゼを何枚も重ね、絆創膏できつく貼り付けていった。
「令子さん、もう泣かないで。この程度の傷で良かったと思いなさい。重症だったら、ただでは済まなかったのよ。生命の危険すらあったのよ。令子さん、お父様の下着と上下服を持って来て。包丁はよく洗って元のあった処に戻しておきなさい。床の血の跡は拭きなさい。すべて元どおりにするのです。いいですね。何事もなかったのですよ。あなたはいつものあなたで東京に戻りなさい。もう、私たちのことには干渉しないでください・・・」
「お父さん、許して、私が莫迦だった。許して・・・・」
「ええんや。おまえには将来がある。何事もなかったことにしておくからな。元気でやれよ」
普段と変わらない父親の口調に、令子はようやく落ち着きを取り戻した。しかし、不安は別の処から生まれつつあった。令子を見つめる加納瑠梨の眼差しが以前とは明らかに異なっていた。どこか遠慮がちな諂いは消え、不躾なまでの不遜さが見え隠れしていた。令子どころか父親、いや、この家すら見下げるような高慢さが。
父親を後部座席に乗せ、加納瑠梨は、病院に向けて車を走らせてくれた。手際よく、卒なく、こうしたアクシデントには手慣れているような印象を残して。
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