不都合な女

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 令子は思い出したかのように、玄関の床に付着した血痕を入念に雑巾で拭った。拭っては拭っては雑巾をバスルームの水道で洗うことを繰り返した。 『わたしには殺意などはなかった。なかったのよ。とにかく加瑠瑠梨を父の側から排除したかっただけなのよ。もし、あのとき、父があの女をかばわなかったら、被害者は父ではなく、あの女だった。あの女のことだから、殺人未遂で警察を呼んだだろう。そうでなくとも、あの女はわたしが父を刺した唯一の目撃者でもあるのだ。既に、あの女はわたしの尻尾を掴んでいるということだ。あの女を信用してよいものか。どんな女なのか、本性すらわからない。明日、このままして東京に戻ることが出来るだろうか。あの女の存在に怯えながら生きていくなんて出来ようか。いずれ、あの女は父と結婚するだろう。帰省するたびに、わたしはあの女のご機嫌を取ることになる。軽蔑されながら、威圧されながら、この家にいっとき留まることになる。かといって、東京を逃避先にしてはならない。わたしは東京を見張り俯瞰できるほど横柄(おうへい)な人間ではない』  確かに、その大都会は、時間通りに朝に起きて、電車に乗り、会社に行き、決まった仕事をこなす。会社の誰もが、いつも忙しい。夕べも定かではなく、腹を割って話す余裕すらなく郊外へと帰って行く、今のところ、これが彼女にとっての東京だった。いつかつれづれのうちに馴染むとしても。 『今、わたしは、こうして神戸の実家に居る。東京は殆んど記憶の片隅となっている。東京、それは、わたしにとっては、ほかの都市とて何ら変わらないのに、わたしは、この神戸から出て行った。父の側に居てやれば、父はあの女と関係を結ぶことはなかったかもしれないのだ。だが、もう遅い・・・。わたしは火に油を注いでしまったのだ』
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