不都合な女

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不都合な女

 瀬戸内の乾いた風が過る神戸垂水区の舞子海岸沿いの街並みは、いかにも五月の暮れらしく日差しもまぶしい清々しい初夏の装いに輝いていた。  志筑令子(しづきれいこ)の実家は、JR神戸線舞子駅から東へ歩いて十五分のところにある。海岸公園近くにある国道を抜け、緩やかな勾配の住宅街の坂道に入り、二つ目の四つ角を過ぎると二階建ての白いチュダー様式の洋館が見えてくる。尖頭の平たいアーチが微かに中世の北欧を忍ばせ、それが麗しい青葉並木の風情に微妙な孤独感を添えている。しかし、真新しい一方ならぬ重厚なアッシュフォード張りの黒大理石の門柱が異常に目立っているせいか、この屋敷が計算し尽された虚栄の城であることを図らずも露呈している。表札には確かに「志筑」と刻まれている。  この屋敷の一人娘、令子は二階のバルコニーに佇み海辺を眺めていた。東京から帰省し、実家のバルコニーからこの景色を眺めるのは、これで六度目であった。ただ、今度だけは様子が違っていた。雨季にはまだ遠いのに、なにかに急かされるでもなく躊躇(ためら)うでもなく、彼女の顔の表情にはどこか憂鬱そうな影がさしている。もしや、黄昏が忍び寄るのを案じているのだろうか。いや、それとも違う。よく見ると、この辺り特有の(まど)かな五月の暮れの空気が彼女の襟首(えりくび)でゆらゆらと漂い、はかない陽炎と化している。それを吹き放つように、陸からの乾いた風が、彼女に怠慢と倦怠を誘って止まないのだ。  この海辺の景色は、喧騒に萎えた東京の記憶をひと時の間、白色の遠い夢に変質させる。彼女はそのことをよく知っていた。 「令子、どないした。そんなところで海でも眺めとるのか?下に降りて紅茶でも飲まんか」 「わかった。今行くから」 父親の焚き上げるような震える声で、令子は一瞬にして現実に引き戻される。 「東京からこの家に帰るとタイムスリップしたような感覚になるのよ。なんか気怠くってなにもする気がなくなるわ」 「そうやろうな、ここはリゾート地みたいなもんやからな」 「紅茶か、いつもコーヒーばかりなの。久しぶりだわ」 父親、雄平は、なにか言い出し兼ねていた。父親のどこか、もじもじとした恥じらいを押し隠しているような表情に、令子は我慢できなかった。 「なにかあったの?…」 「令子、僕は再婚することに決めたんや。あの加納瑠梨っちゅう女性や。この一年付き合ってみて決心したんや。おまえには分かって欲しいなあ」 「えっ? あの女とは決別したはずじゃなかったの? 不倫女じゃなかったの。騙されたって、あんなに悔やんでいたじゃない。なのに、どうして?」 「それが再会したんや。っちゅうか、瑠梨さんは独り身やったのや。僕との不倫でもなんでもなかったのや。悪い奴らに騙されたっちゅうことや。首謀者は誰だか言ってくれへんかったけどな。まあ、それはそれとして、瑠梨さんは前よりもっと美しくなっとったんや。まるで若返ったみたいやった。惚れなおしてもうた。そもそも僕こそが浮気で女房と別れたんやからな。令子、今度こそ正式に瑠梨さんと顔を合わせてくれへんか」 「そうなの。考えさせて。あの人、綺麗で教養もあって素敵な人だわね。でも、私に新しい母親、それはないわよ。父さんは父さんで自分の人生を悔いないように生きて。私のことは構わないで。私は私で生きて行くから」 「どうしたんや。機嫌悪いな。なにかあったんか?。仕事上手くいっとるのか?東京の生活は大変やろう。そろそろ関西に帰ってきたらどうか。就職先はなんぼでもある。この家から通えばいいやろうに」
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