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女性キリギリスは、ゆっくりと体の向きを変えて立ち去ろうとした。彼女はどこに行くつもりなのだろう。このまま別のアリに匿ってもらうのだろうか。それとも…。
このまま帰って欲しくはない。だけど、どう言葉をかけたらいいのだろう。何か話しかけたいけど、言葉が出て来ない。
彼女の姿が、僕の部屋から見えなくなってしまう。
――歌いなよ
思わず身震いした。その声を耳にした時、反射的に羽根を広げていた。
優しく、切なく、音を立てる。この土の中では湖のように音は響かないけれど、僕は力の限り演奏しようと思った。
拙い。本当に湖のキリギリスと僕の音色は違う。この違いは何なのだろう。彼は一体、何を感じて、何を思い、何をこの世界に残そうと思ったのだ。
音色は土壁に吸い取られ、数秒も経たないうちに世界は忘れ去ってしまう。僕ら生き物の命そのものだ。死んで土にかえり、数年もしたらその存在すら忘れ去られてしまう。
では、何のために生まれたのだろう。何のために生きているのだろう。何のために死んでいくのだろう。
まるで涙を枯らすまで泣き続けた少女のように、僕は心の中の思いを音に変えて奏で続けた。それらは、跡形もなく消え去っていく。
それでも、気分は晴れた。ほんの少しだけだが、湖のキリギリスの気持ちがわかった気がする。
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