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おさんぽ日和
「いい天気ねぇ」
窓ガラス越しに青い空を見上げて、母は笑った。
「ねぇ、由紀。おさんぽに行かない?」
「え? なぁに、いきなり」
急なお誘いにわたしはきょとんとした。
「あら、だめ?」
「そんなことないけど。ただ、いきなりどうしたのかな、って」
「ええ、ちょっとね。あなたが小さいとき、こういう天気の日はよく公園までおさんぽしたなぁ、って思い出したから」
「そうだっけ?」
「あら、覚えてない? まぁ、幼稚園に入る前の話だものね」
「だったらわたし、まだ2歳ぐらいじゃない。覚えてなくて当然よ」
わたしは思わず苦笑いした。
「で、どうするの? 行く? 行かない?」
「そうだなぁ……。行こうかな」
「行くのね? じゃあわたし、帽子をとってくるから。由紀もなにか準備するものあるなら持ってきなさい」
そういうわけで、わたしと母は、まだ赤ちゃんだったわたしがよく遊んだという公園に行った、のだが……。
「まったく、年甲斐もなくなにしてるのよ! いきなりあんなことして……、信じられない!」
「ごめんなさいね……。私、重くないかしら?」
「もっと他に言うことあると思うんだけど!」
公園に着いてほんの数分後のこと。母は私のお気に入りだったというジャングルジムと『再会』を果たしてテンションが上がり……それはまだいいとして、ハイテンションのままジャングルジムを登ろうとして落っこち、見事に左足首を捻挫したのである。おかげで私は母をおぶって帰ることになった。
「ほんとにもう、50近くにもなって! こんな格好、私もはずかしいし! お父さんにもきっと笑われちゃうわよ。――とにかく、家に帰ったら手当しなきゃ。湿布を貼ればいいのかな……。それとも氷かなにかで冷やす? 捻挫に冷やすのって効き目あったっけ?」
「……」
「……お母さん?」
母が妙に静かなので、私はちょっと不安になった。思っていた以上に重傷だったのだろうか……。
しかし母は唐突にこんなことを言った。
「ねぇ、由紀。あなた、もうすぐ大学生なのね」
「うん。そうだけど……」
それがどうしたの、と言いたげな私に母は微笑んだ。
「実はあなたも、あのジャングルジムから落っこちて捻挫したことがあってね。その時は私がおぶって家まで帰ったのよ。ちょうどこんな風に。……それが、今度は逆になっている。あの時は私の腰ほどの背丈もなかった子が、もうこんなに大きくなって、今度は私をおぶってるのよ。なんだか……ちょっぴり感動しちゃって」
母はいきなり私をぎゅっと抱きしめた。
「ちょ、ちょっと、お母さん!」
慌てる私に構わず、母は続けた。
「来月からは、一人暮らしね」
「そ、そうだけど、」
「いったん親元を離れたら……、あと何回会えるのかしらね」
私は、はっと胸をつかれる思いがした。
そうだ。もうお母さんやお父さん達とは一緒ではないのだ。生まれた時から19年近く、ほぼ毎日顔を合わせていた人達。ずっと私のそばにいてくれた人達。でも、これからはそうではなくなる。
私はそれまで楽しみにしていたはずの一人暮らしが、急に怖くなってきた。
「連絡、なるべくたくさんとるようにしてちょうだい」
「……うん」
「怪我や病気をした時は、特に」
「……うん」
これは今までさんざん言われてきた言葉だった。だが、今まで以上に真剣にうなずいた。
「なるべくそんなことには、ならないでほしいのだれけどね」
母はおぶわれたまま私の頭を撫でた。いつもの私ならはずかしいと拒否したかもしれなかったが、今はされるがままになった。
「……もう、歩き始めてもいい?」
「……ええ」
家への帰り道をまた歩き始めた私だったが、ふと母をおぶうことも初めてではないことを思い出した。
まだ中学生のころ、ふざけて母をおんぶしたことがあったのだ。その時は重い重いと言ってすぐにギブアップしたのだが……。
いまは楽々、とはいかずともあの時よりは簡単に母をおぶっている。
なぜだろう。私が大きくなったからだろうか。いやしかし、私の身長は中学生でほぼ伸びきっているし……。
――戯れに母を背負いて そのあまり 軽きに泣きて 三歩歩まず
石川啄木の読んだ短歌だ。
……母が軽くなったと思うのは、母が歳をとったせいだろうか。まさか。まだ50にもなっていないのに。
けれど私が大きくなるにつれ、母や父が老いてきたのは確かなことだ。まるで意識してこなかったけれど……。そして、これからも老いてゆき……。
……なるべく、ずっと先のことだとは思いたい。だが、きっと確かに、その日は来る。
(本当に、いったん離れてしまったら……あと何回、会えるんだろう)
思わず、目に涙が滲んだ。
桜の花がほころびようとしている。すれ違う人の衣服も、1週間前より軽やかだ。
季節が移ろいゆくように、人の一生も変わってゆく。なにもかも永遠などありえない。
頭ではちゃんとわかっていたことだった。だがこの時、あらためてはっきりと胸にその事実を突きつけられた気がした。
「……由紀?」
「な、なに?」
「……ううん、なんでもないわ」
もしかしたら母は気づいていたのかもしれないが、その時はなにも言わなかった。
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