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『今更学校へ行くのに気後れするのはわかるわ。けれど、それってお父さんを追うより難しい事? それに学校で学べることもあるのよ』
あの頃、私は焦って余裕が無かったんだ……。
『お母さん、なんだか冷たいよ。お父さんが一年も帰ってこないのに、ほっとくなんてさ』
アマネがリビングルームを出ようとする。
『アマネ、ちょっと待ちなさい』
いつもと違う母の口調に、ムスッとした態度で『なに?』と、ヨシノのテーブル向かいに立つアマネ。
『大事なことだから、話しておきたいの……あの人が、このまま帰ってこれなかった時の事よ』
『どういう……意味……』
『……』
『なんでそんなこと言うの……絶対やだ、考えたくもないよ』
ヨシノの表情が厳しくなる。
『それは当然、私も同じよ。けれど、可能性が無い訳じゃないでしょ?』
『……』
『お母さんね、お父さんの事は覚悟が出来てるの。けれど、あなたにまでもしもの事があったら――』
『聞きたくないよ……』
『アマネ……』
『お母さん、お父さんが生きてないていで話してる。もうお父さんの事、見捨てちゃったんだ』
私が、ああ言った時のお母さんの顔は……間違いなく怒ってた。テーブルを挟んでなかったら、きっと平手打ちをもらっていたと思う。それもかなり強く。
当然だよね……。お母さん、私の事すごく心配してたのに、私はお父さんの事しか頭になくって、お母さんにひどい事言ったんだ……。
でも、認めてほしかった……納得してほしかったんだ。お母さんの思いを無視して行くことは出来ないよ。
洗面器の水面に映るアマネの顔が、ゆらゆらと揺れている――。
あの日から組合の事は何も話してない……。
「はぁ……」
アマネは濡れた顔をタオルで拭くと、洗面所を出て重い足取りでリビングルームへ向かった。
今日はいろいろと覚悟がいりそうだな……。
部屋に近づくにつれ、バターやスープのいい匂いが漂ってくる。
ドアは開けてあり、部屋に入るとエプロン姿のヨシノが朝食をテーブルの上に並べていた。
アマネは席に着くと、手に取ったパンにバターを塗りながら、向かいで仕度をするヨシノに目をやった。
そこには、いつもの優しい母の顔がある。
今日だけはずるいよ……。
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