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蹴破り戸
マンションのベランダのさ、お隣との間に板があるでしょ。
そうそう、パーテーションみたいなボードで「非常の際はここを破って隣戸へ避難できます」って書いてあるやつ。
蹴破り戸、なんていうちょっと可笑しな名前らしいんだけど。
その蹴破り戸の下って少し空いてるじゃない。
え、空いてない? へえ、そういうマンションもあるのね。
でもウチは空いてるの。
それでね。ある朝ベランダに洗濯物を干してたらさ、その隙間から、いきなりヌ‥‥ってこう、手が出てきたの。
ちょっと! 笑わないでよ。作り話じゃないんだって。
真面目に話してるんだからね。
「ヒエ…!」って声を飲み込んで、洗濯物を胸に抱えながらその手に見入ったよ。
女の人の手だった。指の関節は少し皺が深くて、手の甲には血管が浮いてて、そんなに若い感じじゃない。でも、スラっと長くて細くて綺麗な指だったよ。
左手だったね。左利きなのかもしれない。
薬指にはシンプルな細い指輪がはまってた。
その手がさ、蹴破り戸の下からウチのベランダをまさぐってるの。
手首から先は見えない。
そもそも蹴破り戸の下の隙間ってそんなに広くないから、あんまりこちら側に腕を伸ばすこともできないんじゃないかな。
だから私から見えたのは手だけなんだけど、なんかもう、必死に何かを探すような動きだったね。
その日はそれで終わり。私はとにかくびっくりして息を殺してたし、左手もしばらく必死に彷徨ったあと諦めたのか、スッと引っ込んだんだ。
結局、声は掛けられなかったね。
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