303. 洗い流す雨

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303. 洗い流す雨

 夜明けが近づく街は、鉄錆びた臭いが漂っていた。歩き回っているのは魔族ばかりだ。尻尾を振って歩く魔狼が、時折狩り残しを発見して追い出す。狩った人族の肉が多すぎるため、殆どは焼却処分されていた。地面に穴を開けて人族の灰を放り込む。  煙が立ちのぼる都の姿は散々だった。汚れた建物の生臭さに顔をしかめたベルゼビュートが、ケガをした魔獣達の手当を始める。戦いはほぼ終盤に差し掛かっていた。 「終わったか」  大きなフェンリルの背に乗ったルシファーが、ベールのいる丘に降り立つ。ここはまだ緑の丘が無事に残されていた。都を見下ろす丘に舞い降りたフェンリルの足元で光った魔法陣が消える。 「陛下、ご報告までもう少し猶予をいただきます」 「構わない」  ヤンの上で見回した街は、一夜で廃墟だった。かろうじて建物は残っているが、人の気配が消えただけで荒んだ退廃が漂う。 「リリス姫はどうなさいました?」 「ここだ」  ルシファーが身動(みじろ)ぐと、黒髪が少し見えた。ふわりとヤンの上に飛び乗ったベールは、すやすやと眠る幼子に表情を和らげる。 「ご無事でよかった」 「……傷つけられていた」 「は?」  聞き返したベールに、淡々とした声でルシファーが語ったのは、召喚されたリリス達の必死の抵抗だった。助けようと庇う友人が倒れ、ケガを負いながら懸命に立ちはだかった幼女は、ルシファーの白い髪を掴んで眠り続ける。  腕に抱いたリリスの足をスカートの上からそっと撫でて、ルシファーは物憂げに溜め息をついた。 「リリス1人守れない魔王なんて」  価値がない、と落ち込んだ様子で美貌を曇らせる。最強と謳われようが、最愛の存在を傷つけられる程度の実力だ。そう嘆くルシファーに、珍しくヤンは何も言わなかった。  すでに何度も慰めを口にした。しかしルシファーの心に届かないのだ。どうしたらいいかわからず、ヤンは静かに見守っていた。事情を察してしまったベールは、銀の前髪をかき上げて苦笑いする。 「陛下のこたびの英断で、数千の魔族が長らえる。その中にリリス姫と側近達が含まれるのですよ。足りませんか?」  これ以上の戦果を望むのですか? 尋ねるベールの声に、首をゆるゆる左右に振った。 「王都は終わりですね。建物の処理はどうなさいますか」 このまま残すか、完全に破壊して平らにするか。または適度に破壊して廃墟とする手もあった。紺から紫に色を変え始めた空が、急速に暗くなっていく。 ぽつりと雨が落ちた。ぱたぱたと音を立てて降る雫は、あっという間に大粒の雨となる。 「このまま残せば利用されるか」 壊す方向へ意識が傾く。しかしすべて消してしまうと、惨劇の記憶が薄れるのも早まりそうだった。 結界を張ってヤンごと包んだルシファーが、叩きつけるように激しく降る雨に頬を緩めた。これならば赤く汚してしまった大地も洗い流せるだろう。 街の処理を半壊と受け止めたベールへ、王都からの魔王軍引き上げを指示する。伝達される指令に、最初に反応したのは魔獣だった。 駆け戻る魔獣の背に乗る軍兵も見受けられる。さまざまな種族が混じり合った魔王軍だからこその光景だった。 人族が魔族を敵対視しなければ、危害を加えなければ、この中に人族の兵士もいたかも知れない。仮定でしかない考えを振り払うように、ルシファーは口角を歪めた。 「パパぁ」 純白の髪をきゅっと引いて、目元を擦るリリスが声を上げる。途端にルシファーは甘い微笑みを浮かべて、腕に抱いた幼女に頬ずりした。 「リリス、起きたのか?」 「ここは嫌い」 もう帰りたいとぐずるリリスに眉尻をさげたルシファーが、「後片付けしてからね」と妥協案を提示する。「もう帰ってもいいですよ」と言いかけたベールが口を開くより早く、リリスは振り上げた右手で自らの腿を叩いた。その振り下ろす動きに、曇った空が明るく光る。 「あっ」 止める間もなく、落雷が王城の塔に落ちた。
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