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プロローグ
1646年、3代徳川家将軍家光の側室、お玉に男児が誕生した。
幼名を徳松。
後に五代将軍となる綱吉公である。
同じ年、江戸の大名鬼羅家にも男児が誕生している。
徳松の誕生から遅れること十五年。
鬼羅家に誕生した二人目の男児こそが、この物語の主人公である。
秋の新月の晩に産み落とされたこの男児、幼名を竜胆と名付けられた。
産湯で洗われ、おくるみに包まれた竜胆は乳母の腕に抱かれると、赤ん坊然とした無垢な微笑みを見せる。その愛くるしさに乳母は思わず自らの指をそっと竜胆の口元にあてた。すると竜胆は乳母の指にぞぶりと牙を立て、物凄い勢いで指先から血を啜った。乳母は一気に血の気を失い、それっきり気がふれてしまったという。薄く可愛いらしいその口元に真っ赤な鮮血をつけて竜胆は不敵な笑みを浮かべた。目は朱に染まり、あどけない笑い声を漏らした口元からは鋭い牙が覗いたという。
竜胆は半年で歩き始め、一歳のころには巧みに言葉を話した。
五歳になる頃には、読み書きを完全に覚えた。
時にこの鬼羅家。
当主がどのような仕事をしているのか、誰も知らない。
だが、時折将軍直々に呼ばれ、城に出向くことからお目見え以上の職についているのだろうと、誰もが漠然と思っていた。
屋敷に仕える家臣団でさえ、
「殿は、どんなお役目であったか?」
「殿は・・・・・・って、そんな事某に聞くでないっ。あれだけ度々将軍様から直々にお声がかかるのだ!重要なお役目を頂いてるに決まっているだろう」
「だからその、重要なお役目ってなんだ?」
「それは・・・っ・・・・重要なお役目は重要なお役目だっ!我らは殿についてゆけばよいのだ」
「まぁ・・・それもそうか・・・」
と、まぁこんな始末である。
謎に包まれた鬼羅家であったが、江戸の町にはそれなりに溶け込み、二人の息子たちもすくすくと育っていた。
兄の藤丸は元服の折に齋朝の名を賜り、竜胆より十五歳年上で、家光公に徳松が生まれたのと同じ年に生まれている為、父である当時の当主は時折斉朝(当時は藤丸)を城に連れて行っていた。今では齋朝が鬼羅家の当主としてその才覚を存分に発揮させている。
竜胆はこの年の離れた兄、斎朝が大好きだった。
「兄上・・・、今日はお城で何してきたの?」
「徳松様と遊んできたんだよ」
「徳松様?」
「うん、将軍様の子供なんだって。父上が言ってた」
「ねぇ、兄上は徳松様の血を飲むの?」
弟竜胆の言葉に、兄の齋藤朝は無邪気な笑い声をあげた。
「いいや、徳松様の血は飲まない。私たちは人の血を啜ってはならないのだよ。だから、徳松様にもそんなことはしない。よくお聞き、竜胆。お前もそのうちに友達ができるだろう?でもね、その友達の血を決して飲んではいけないよ」
「うん・・・・、でもさ・・・・、お腹が空いてたらどうするの?喉がこぉ・・・からっからになったら?」
「お腹が空いても、喉がどんなに乾いても人の血を啜ってはならないよ。でないとお前は永遠に独りぼっちで彷徨うことになる。いいかい、竜胆。約束だ。決して人の血を啜ってはいけないよ。この世界のほとんどは人だ。だからいつかお前にできる友達も人だろうけど・・・だけど決して噛んではいけないよ。友達は食べ物ではないからね。」
「うん。わかった・・・友達は食べ物じゃないんだね。だから血を啜らない。でもさ・・・友達でなかったら?友達でないなら噛んでもいいよね?」
「いいや、だめだよ竜胆。友達以外も噛んではいけない。これはね、とても大切なことだよ。決して忘れてはいけないよ」
「じゃぁ・・・・悪い奴は?悪い奴なら噛んでもいいよね?」
「だめだよ竜胆・・・、悪い奴も噛んでははいけないよ。それに・・・・きっと悪い奴なんて噛んだらお腹が痛くなるよ」
「えっ、悪い奴噛んだらお腹痛くなるの?」
「たぶんね」
「うん、わかったよ。悪い奴も友達も噛まないよ!」
兄弟は小さな小指を絡ませあい、微笑みあった。
というのも・・・実はこの鬼羅家、鬼の一家であった。鬼は鬼でも好んで生き物の血を啜る。人と同じ食事もとれるが、それでは決して渇きは満たされない。彼らの渇きを満たすのは、血だけなのである。
鬼である鬼羅一族が、なぜ人間の世に紛れて生活をしているのか。
それは、遡ること約七百年。
世は平安。
悪鬼が都を我がもの顔で往来し、妖と人とが最も近くにあった時代。
思うがままに暴れ、本能の赴くまま、欲するままに、人の血を啜る鬼がいた。鬼は時に妖からさえも血を啜った。
柔らかな人の子を喰らい、、若い女を攫っては血を啜る。
時の帝はこの事態にすっかり困り果て、朝廷に属していた陰陽師、安倍晴明に白羽の矢を立てた。
そしてたちまちのうちに、鬼は晴明を前になすすべもなくなった。
帝の御前で呪符で雁字搦めにされた鬼の前に立つ晴明に、帝は鬼の消滅を命じた。
ところが晴明はその口元に涼し気な笑みを浮かべ、首を横に振る。
そうして鬼にひとつの条件を提示した。
その条件とは。
これより先人の世の中で人に紛れ、人として生き政の助けとなること。そしてその間、絶対に自らの欲望により人を殺めてはならない。約束を違えたとき、その鬼は即座に封印される。
これこそがこの時、晴明が鬼にかけた呪であったのだ。
鬼にとって、封印は消滅よりも恐れるものであった。生きたまま闇に閉じ込められるのは、永遠の苦であり最も恐れるものであった約束といえば聞こえは良いが、ほぼ一方的な契約であった。
この時の鬼の一族が、後の鬼羅家である。
晴明の呪を受けてより七百年。
鬼羅家に生まれた鬼の子竜胆ももれなくこの呪いを受け継ぎ同時に・・・、何の因果がこれまでのどの鬼よりも、鬼の特性を強く受けて生まれた。
ある時、父そして兄と江戸の城下へ出かけたときである。
竜胆は赤ん坊を抱いた母親を見るなり、一目散に飛び掛かっていった。
生まれたばかりの赤ん坊の血肉は柔らかく、なんとも言えぬ程の芳香を放つ。竜胆は本能のままに、赤ん坊に食らいつきその血を啜り、肉を喰らおうとしたのだ。
父が慌てて竜胆を女から引き離したが、その時の竜胆の双眸は朱に染まり、口元からは牙が除き、爪は鋭く長く伸び、更には頭頂部から普段はない角までが出かかっていた。
竜胆六つの時である。
鬼羅家が人を喰わなくなってより七百年。鬼羅家は今、裁きにあい死罪となった人間などを食し生きながらえているが、鬼羅家でこのことを知っているのはもちろん鬼の一族だけである。人間の家臣団たちの知るところではない。こんなことができるのも鬼羅家が将軍家の要職についているからであった。
それでも、時たま偶然目の前で血を流す人間を見て、自らを抑えられなくなりとうとう狂ってしまった一族の鬼もいたという。結局喰らってしまい、晴明の呪が発動され封印された者もいる。しかし、長い間には鬼と人間が結ばれることもあり、今ではすっかり人を喰らいたいとさえ思わずに人と共存できるまでに耐性が一族にもつくようになっていた。なかには一切の血肉を食さずとも、人間と同じ食事のみで満足できる者さえいた。晩秋の父でさえ、人肉は喰らうものの、目の前の人間をを喰らいたい、血を啜りたいという衝動にかられることなど一度たりとてなくこれまで過ごしてきたのだ。
そんな時に生まれたのが、竜胆だった。
これほどまでに、鬼の血を強く持った子が産まれてしまったことに両親は頭を抱えた末に仕方なく、竜胆が屋敷の外へ出ることをその日限り一切禁止したのであった。
傍らには常に同族である鬼女の馬場が付き従い、竜胆の世話をやいた。
馬場はすでに三百歳であり、鬼の中でも古株にはいる。父親は鬼であるが、母親は人間だという馬場は、人の心を根気よく竜胆に伝えた。
鬼羅家の家臣団には、人間も多くいたが竜胆の周囲からはことごとく人間は排除され、竜胆は両親、兄、そして馬場や一部の鬼の血をひく者達との接触しか許されていなかった。
もちろん、竜胆が人間の血を啜り喰らってしまうのを避けるためだ。
多少窮屈な生活ではあったが、屋敷には同じ年頃の鬼族の子供もいたし、竜胆は他の大名の家の子供のように庭で剣術の稽古をしたり、読み書きを習ったり、時には兄の斎朝にじゃれついたりとそれなりに元気に育っていった。
それでも、新月の夜は竜胆の周囲の警戒はひときわ強くなる。
新月のもたらす闇が竜胆の鬼の血を騒がせるからだ。
新月の夜、屋敷の外から漂う人間の香に竜胆の牙は長く伸び、その目は朱に染まり爛々と陰の気を発した。暴れ狂い今にも屋敷の外へ飛び出そうとする姿はまるで獣のようでもあり、竜胆を両親と兄、そして馬場が四人がかりで必死に抑え込んだところを、竜胆は自分を押さえつける馬場の腕に牙を剥いたこともあった。
それでも根気よく竜胆に付き従い、その世話を焼いていたのはかつて馬場の子供がやはり新月の夜に覚醒し人を喰らってしまったからなのかもしれない。
そんな竜胆も元服を迎える頃には、大分自らを自制できるようになっていた。そして元服の折、竜胆は晩秋と名を変えた。
人間の多い家臣団への接触が許されると、家臣の者達は初めて見る鬼羅家の次男に目を丸くした。
なぜって、元服の儀の際に晩秋は髪をそることを酷く嫌がったのだ。それだけではない。武士として当たり前の袴姿も嫌がった。なんとか皆で押さえつけ髪を反り上げようとすれば晩秋はたちまちにその腕の間をすり抜けてしまう。結局、晩秋が髷を結うことはなかった。
大名の子であるにも関わらず、髷も結わず袴も履かない。
漆黒に一筋の銀の流水門の描かれた着物を着流して、呑気に日がな一日縁側で昼寝をしたり、酒を呑んだりしている。
「ご長男の斎朝様は立派なお方であるが、あの次男はどうだ?」
「あぁ、ありゃ立派は立派でも立派なうつけ様じゃ」
「本当に、斎朝様がご嫡男でよかった」
「あぁ、斎朝様がいらっしゃれば鬼羅家は安泰だ」
そんな声が、家臣団の中で囁かれるようになっても晩秋は一向に気にしなかった。
その日も晩秋は庭に下り立つ雀を時折喰らいながら、ひとり片方の腕で頭を支え横になって酒を呑んでいた。
と、背後で大きなため息が聞こえる。
「ばばぁ、そんな大きなため息をつくと一気に老いぼれてそまうぞ」
「ため息ごときで、老いぼれたり致しませぬ。それに私は馬場でございます。ばばぁではございません」
「あぁ、そうか・・・・時にばばぁ。俺は・・・屋敷の外に出ようかと思うんだが」
「ですからっ!ばばぁではございませんっ!馬場でございます!って、ばばば・・・晩秋様が屋敷の外へ?」
晩秋がごろりと体を転がし馬場の方へ体を向けると、そこには見た目なら四十を過ぎたくらいの馬場が体をのけぞらして驚いている。
「あぁ~、別に外に出たからって人など喰らいはせぬぞ?それに多少血を啜ったからと言って、相手にばれずに、更には死なねば良いのだろう?」
そう言って晩秋は口に咥えていた雀の骨を吐き出した。そんな晩秋を見て馬場は再びため息をつく。
「人を喰わぬとも、血を啜る気満々ではございませぬかっ!それにっ!人間はそのように飛んできた雀をさらりと喰らうようなことは致しませぬ。晩秋様とて、本当はおわかりのはず。なのにどうしてっ」
「あぁ~、はいはい。飛んできた雀は外では喰わぬ。ついでにそこらに歩いてる犬猫も喰わぬし、色っぽい女がいたって、血を啜るのも我慢すればよいのだろう?」
晩秋は馬場の言葉を遮ってそう言うと、「よっこらしょ」と立ち上がる。
「晩秋様っ、いずこへっ!」
「だぁかぁらぁ、少しばかり外を見物してくるだけだ」
「それなら齋朝様へまずっ」
「あぁ、兄上様ねぇ・・・・」
晩秋は半身で振り返ると、薄い唇の端で笑う。
「ばばぁから適当に言っといてくれ」
言うが早いか、晩秋の姿はもう消えていた。
馬場は青い顔をして、取るものもとりあえず齋朝を探しに駆けて行った。
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