最後の月見酒

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 菊紋の描かれた白い盃を手に取る。これを割ればいよいよ、彼女の隣には戻れない。覚悟を決めてた筈なのに、急にそのことが恐ろしくなった。手の震えを抑えようと天を仰ぐと、夜空には一面雲がかかってしまっていてあいにくと月は拝めなかった。仕方なく目を閉じ記憶を辿り、澄み切った空に浮かぶ月を思い浮かべる。瞼を開いた時そこに浮かんでいたのは、やはり最後に彼女と見た金色に光る満月だった。 合図が出された。既に手は震えを止め、心の瞳に映した満月と彼女の美しい姿のおかげで別盃は月見酒へと様変わりした。しかしながら味はどうにも変えられない。別盃は水を用いるものだとは分かっているが、杜氏という酒を造る家の三男坊として生まれた自分にはやはり盃に入れるのは上質な酒でないと違和感を覚える。 「それならおまえが造った酒が一番だな。」  記憶の中の彼女がそう言って鈴の音のような笑い声を漏らした。 その瞬間彼女との想い出がよみがえる。 兄たちと比べられ膝を抱えてめそめそと泣いていた時、ただ優しい腕で包み込んでくれたこと。 それから月に一度彼女の現れる裏山の朽ちかけた稲荷神社に足を運んだこと。 それがいつしか時間をずらし、月見酒を楽しむ時間となったこと。 これらの記憶を、自分は死してもなお魂に刻み込んでまで憶えていたいと思った。 いや、こんなにも尊い記憶を忘れるなどという話のほうが無理難題といえよう。 そうだ。自分の魂だけは靖国に向かわず、あのひびの入ったお稲荷様の元へと向かうのだ。 だからこの酒は決して別盃では無い。別れの挨拶ではない。そう思いたい。 今、貴方の元へ帰ります。 心の中でそう呟き、盃を地面に叩きつけた。パキリと音を立てたそれは、もうこの場へは戻らないという誓いになる。死して祖国に勝利をもたらせと言うのだ。 出撃セヨ。アノ国ノ兵ヲ討チ、貢献スルノダ。 厚い雲を越えた先には大きな大きな十五夜お月様。 「お狐さん、今あなたのとなりへ行きますからね。」 それから、人生の終焉が待っていたのだった。 チリン。最期に鈴の音が聴こえたのは僕の幻聴であったのだろうか。
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