483人が本棚に入れています
本棚に追加
* * *
朝起きると、アオバは部屋にいなかった。
布団の上で身を起こして、ぼんやりとする。
額に指先を当てた。昨晩、何かが触れたあたりに。
「……」
ちょうど部屋の扉が開いて、アオバが顔を見せた。
「おはよう、てっちゃん」
「……早いね。どこ行ってたんだよ?」
「朝風呂」
昨晩、もしかすると額にキスをされたんじゃないかと、今になって思い始めていた。
気のせいかも知れないし、夢かもしれない。
アオバに聞いてみようかと思いつつ、どう聞いたらいいのかもわからない。
昨晩の失態について、もう一度謝りたいという気持ちもあった。
だけどアオバはいつも通りの態度で接してくるし、今更話を蒸し返すのも気が引ける。
それに昨晩のアオバは、いつもの悪ふざけで抱き着いてくる時と違って、とても優しく真剣な表情をしていた。
その慈愛に満ちた顔を思い出すと、俺は漠然と恐ろしくなっていた。
俺達の友情に、何か変化が起きてしまいそうな、そんな予感がして――
結局、俺はアオバに何も言えなかった。
お互いに昨晩の出来事には触れないまま、俺達は長野県を出発し、静岡県へ向かった。
モヤモヤしていた。
だけど、爽やかな朝日を浴びながら走っているうちに、少しずつ気分は晴れていった。
八ヶ岳を後にし、南アルプスを眺めながら進むと、やがて富士山が間近に見えた。
アオバがまた歌ってる。
「ずいぶん古めかしい歌だなあ、オイ」
思わず笑ってしまった。
それは少しだけ覚えのあるメロディだった。若者と、春の青い山々の情景を描いた歌詞。戦後の流行歌じゃないだろうか。老人ホームで歌われていそうな歌だ。
アオバはきっと、じいちゃんばあちゃんのことも大事にしてきたんだろうなあと、なんとなく思った。
アオバもちょっと笑いながら、軽快な『青い山脈』のメロディを口ずさみ続けていた。
最初のコメントを投稿しよう!