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 華屋充(はなや みつる)はその薫りが好きだった。  いつからだろう、幼い頃から子供には似つかわしくないその少し苦味のある蒸気を、父親の横で嗅ぎたがっていた。  充の父は喫茶店を経営していたため、充が物心ついたときには、その薫りが身近にあったのだ。  父がお湯をそそぐヤカンのようなそれは、充のお気に入りのジョウロと同じ様にゾウの鼻を連想させた。細い鼻の先から少しずつお湯が注がれると、あの薫りが部屋に漂いだす。  静かな空間に、そそがれたお湯が色を替え落ちる音と、その薫りだけが広がる。  充はその優しい時間と父のことが大好きだった。  「充にはまだ早いと思うよ」  そう言った父に駄々をこね、その琥珀色の飲み物を一口もらったことがある。  胸のときめきとは裏腹に、充の口は苦味で満たされた。  「・・・。」  言葉を出さずしかめっ面を浮かべる充を見て、父は楽しそうに笑った。  いつか充もこの味が美味しいと思える日が来るよ。  その時は一緒に飲もうな。コーヒー。  父はそう言った。  そして、そんな父との約束は永遠に叶えられなかった。  充が小学校4年の冬に父は帰らぬ人となった。    充は哀しかった。もう二度と大好きな父と会えないことが哀しくて哀しくて仕方なかった。  それでも充は泣かなかった。男の子は簡単に泣いちゃいけないと言っていた父の言葉を覚えていたからだ。もう会えない分、父と話したことはなるべくその通りにしたかった。そうすることで少しでも父を感じていたかった。  あいつと会ったのはそんな時。泣きそうになるのを我慢して一人近所の公園にいたときだった。  少し前にクラスに転校してきた同級生。たしか黒井光平といったっけ。話したことはなかった。  光平は充を見て、突然大粒の涙をこぼし始めた。  初め、充は何が起きたのかわからなかった。  「どうして、こんなに哀しいのに、泣かずにいれるの?」  嗚咽を漏らしながら、光平が尋ねる。  「え?」  「哀しくて、哀しくて、涙が止まらない」  自分はそんなに泣きそうな顔をしていたのだろうか。理由は定かではないが、まるで充の感情が光平にうつっているようだった。  「・・・男の子は簡単に泣いちゃいけないんだ」  「簡単なんかじゃないよ。すごく悲しくて、それなのにすごく我慢してる」
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