特別な日

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突然辞令が下れば、わずか一週間で有無を言わさず今の住まいを出なくてはならない。孝之は場所が変わっても同じ会社で働き続けるが、朝子は引越しの度にパートを辞めなくてはならない。せっかく覚えてきた仕事も失い、仲良くなった友達にも会えなくなり、引越しの度に強制リセットされる気になるのだ。厄介なことに転勤の周期は決まっておらず大変な思いをして引越しても、数ヶ月でまた引越しなんてこともある。今住んでいる所がそうだ。今年に入って2回も引越しをしたものだから、体も心も疲れ、慣れない土地で慣れないパートを始めたばかりで居場所が定まらず迷子になっている気分だ。 「だいたい、お義母さんもお義母さんよね」 大きなステーキ肉を雑に買い物カゴに入れる。 今度は昨日あった義母からの電話を思い出していた。いつになったら孫の顔を見せてくれるの、といったくだらない話だった。耳にタコが100匹くらい出来そうだ。 こういう無神経な電話がある度に、強い言葉で反論したくなるのをグッと抑え、電話のあとは涙が出るのだった。 朝子のもうひとつの夢は子どもを産むことだった。 努力はした。結婚して数年は「そんなに焦らなくても」と自然に任せていたものの、全く授かる気配はなく、危機感を覚えた朝子の強い希望で忙しい合間を縫って2人で病院に行き、お互いに妊娠が可能な体であることを確かめた。基礎体温を毎日付け、不妊に効く漢方があると聞けば飲み、薬を飲んだりしているが妊娠には至っていない。 忙しくてそれどころでは無かった月もある。 頑張ってみたものの残念な結果に終わった月もある。 朝子としてはもう少し高度な治療、人工授精や体外受精等も考えてみたいが、その話になると孝之は及び腰になってしまうのかあまり良い顔をせず 「もう良いじゃん。仕事も忙しいしさ、ちょっとお休みしようよ。俺は別に子どもが出来なくても良いよ。夫婦2人でずっと暮らしていくのも悪くないよ」 などとのんびり言うのだった。 孝之に同意する部分もあるが、いやしかしそれでも……と焦る気持ちもある。 レジの前に赤ちゃんをおんぶした若い女性が並んでいる。 つい見つめていたら赤ちゃんが朝子の視線に気づき「あー!」と笑う。朝子は幸福感を覚えると同時に胸が掻き毟られるように苦しくなり目を逸らす。 やっぱり赤ちゃんが欲しい。 柔らかいその頬に触れたい。 お腹の底から湧き上がる強い衝動があった。
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