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老人は考えの読めない、奇妙な表情をしている。
「わしも色々あるでのう」
しかし氷室は特に気にせず、快く答える。
「僕は一人でいいですから。気にしないで下さい」
「はあ、すまんこって。それじゃあ、また後でのう」
それ以上は口を開かずに、主人は静かな笑顔だけを残して客室を去っていった。
小さく息をつき、氷室は箸を取った。
目の前にあるのは、街では到底口にする事のできない、異郷の御馳走ではある。
だが、彼の重苦しい胸には料理もなかなか通らない。
折角の美味しい物もそうは思えず、箸は殆ど進まないまま、一時間が過ぎた。
夜七時。
ラジオの時報とともに、また襖越しの声が聞こえてきた。
「どうだんね。喰えたかいのう?」
すっと襖が開き、老人が顔を覗かせた。
しかし、半分以上残されたお膳を見るなり、主人が残念そうな吐息を洩らす。
「何じゃ、気にいらなんだかいの? わしのばばぁが、腕によりをかけて作ったんじゃがな」
主人の失意の口振りが胸に刺さり、氷室はうなだれた。
「すみません。食欲がないんです」
「んまあ、いいやさ」
予想していたのか、主人は穏やかにつぶやく。
「人それぞれで、色々あるもんだいね」
主人の両目が、すうっと深くなる。
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