4/9
前へ
/38ページ
次へ
 透明なプラスチックの軸には、どこかの店の名前が書いてある。  青年も、畳の上にがり込んだ。  平机の前に正座して、冷え切った手にボールペンを取る。  宿帳らしいノートには、日付があるばかりで、人の名前は一つもない。  彼は真っ白なペ-ジの一番上に、自分の名前を記した。 「『氷室冬馬(ひむろとうま)』か。モダーンな名前じゃねえ。うん、洒落とる」  老人が宿帳とペンを下げながら、しみじみとつぶやく。 「学生さんかの?」 「まあ、そういうことにしておいて下さい」  問われた氷室は、曖昧に笑った。  はっきりしない氷室の答えを聞き、主人が目を見開く。 「ほおん。妙な言い方をするの」  眉根を上げ、額の皺を深く寄せた主人が、氷室をちらちらと見る。 「それはいいと、何でこんな山奥に来なさったね? 真冬に、こんなひなびた民宿にのう。念の為に言うておけば、温泉も出らんでな。だから誰も来らん」  氷室は薄くかぶりを振りながら、苦笑にも似た息を洩らした。  レンズ越しの視界の端に主人の顔を映しつつ、彼は無感情に吐露する。 「ああ、別に温泉目当てに来た訳じゃありませんよ。ちょっとやりたい事があるんです」  答えた氷室のまぶたが、意図せずして重くなる。     
/38ページ

最初のコメントを投稿しよう!

33人が本棚に入れています
本棚に追加