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「それに一人の方が、却っていい。静かにしていたいから」
悪戯な表情が、老人から消えた。
代わって憂う様な、哀しむ様な複雑な面差しが、主人の顔を覆う。
「こりゃあ詮索は不粋じゃなあ」
その一言を境にして、主人の表情は泊まり客への歓迎の笑みに切り替わる。
「野暮な事は言いっこなし。折角のお客だでのう。遠くから来なさったんじゃろ? 何はともあれ、ゆっくりして貰わんと」
よっ、と声を出して、主人が畳から立ち上がった。
「さて、長旅で疲れとるわな。こんなぼろ宿で、ろくな部屋もありゃあせんが、案内するだよ」
主人の骨ばった指が、長い廊下の奥を差し示す。
「ついて来なされや」
老人は氷室の先に立ち、板張りの廊下を歩き出した。
濃い飴色に光る廊下は、一歩毎にきゅっきゅっと音を立てる。
右手には襖が、左手には大きなガラス窓が並び、薄暗い中庭が見える。
緑の絶えない椿や、雪の積もった石灯篭が静かにそこに立っている。
だが何よりも視線を捉らえたのは、葉の全部落ちた木にたった一つ残った柿の実。
その天然の赤が雪の白に映える様は、不思議な風情を醸す。
立ち止まっていた氷室は、外からの雪灯りに腕時計をかざした。
午後四時三十分過ぎ。
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