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「まあ、山奥のこったで、大したもてなしはできんでの。はあ、すまんこって」
よっ、と立ち上がった老人に、氷室はレンズ越しの好意的な視線を送る。
「構いませんよ。気にしないで下さい」
「そう言ってもらえると、嬉しいだよ」
老主人も、人好きのする笑顔でうなずいた。
捉えどころはないが、逆に懐の深そうな、安心できる不思議な笑みだ。
「じゃ六時にまた来るでな。風呂はその後になるだが……」
「分かりました」
短く答えた氷室に、老人も短く告げる。
「じゃあ、ゆっくり頑張っとくれ」
そうして、老人は氷室の客室から立ち去った。
仄かな音をたてて襖が閉まった。その後の和室は、静寂へと塗り替えられる。
氷室の口から、この日幾度目かの物憂げな息が洩れた。
「頑張れ、か……」
眼鏡を取り、疲れ切った目を閉じ彼は、畳の上に身を横たえた。
古い藺草の匂いに身を任せ、だらしなく大の字を畳に描く氷室。
瞼の裏に、様々記憶が浮かんでは消えてゆく。
遠い街での苦労の日々、一向に報われない努力。
そして、一方的な別れ。
「疲れたな……」
言葉に出した途端に、彼の胸はずっしりと圧し潰される。
どうしようもない閉塞感と、それに諦めにも近い鈍色の絶望。
「最後に一枚、描こうと思ったけれど……」
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