月海月日和(つきくらげびより)

5/10
前へ
/10ページ
次へ
「アールストン、お前が最後に父親に叩かれたのは、何のせいだっけ」 「ああ、確か、お父さんが読んでいた本の話の筋が思っていたのと違ったとかで、書店に本を交換しろと言いに行って、棚の下にある引き出しにしまってあった別の本を勝手に取り出して、店長に注意されたんだよ」 「僕には今も分からない。それがどうして、お前が殴られる理由になるのか」  お客は、大勢、切れ目なしに市場の中を闊歩している。  この人たちが皆、それぞれの理由を掲げて、やり返してこない誰かを傷つけているのかと思うと、彼らがまるで獣の群れに見えた。  クリストフは、祖父のことを思い出す。  クリストフがアールストンの父親に殴られ、頬を腫らせて帰ってきた時、祖父が珍しく――いや、クリストフが知る限り初めて――激高した。  あの温厚な祖父が顔色を変えて、「仇を取ってやる」と家を飛び出て行こうとした。  クリストフは必至で止めた。祖父には、どうしても暴力を振るわせたくなかった。  その時は、どうには祖父は落ち着いてくれた。  クリストフは安堵しながら、自分のことは何でも――自分の息子に叩かれても――我慢できるのに、孫のこととなるとそうではないという祖父の意外な一面を知って驚いた。  そしてそのことが、どうしてか、ずいぶんと嬉しかった。  昼過ぎ、市場の客足も落ち着いてきた。  昼食をとるために露店へ行ったアールストンがなかなか帰って来ないので、クリストフも一度荷物をたたみ、友人を探しがてら露店街へ向かった。  アールストンのうめき声が聞こえてきたのは、露店街の入り口脇の裏路地からだった。 「ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい」 「謝れ、もっと謝るんだ」 「顔や手はやめてください、ごめんなさい」  クリストフは、ためらわず裏路地に走り込んだ。  既にぐったりとなったアールストンが、二度と顔を見たくもないと思った男、彼の父親の手に吊るされている。 「何だ、お前は。あ、その顔は」  ひどく酔っている様子の父親の言葉に構わずに、クリストフはアールストンの体をひったくった。  その時、友人の長袖のチュニックの下に、ずっと続いていた暴力の跡がいくつも見えた。  ずしりとした重みに耐えて、走り出す。  ただ一つの安息の地である、あのどこにも行けない、自分のようなバスへ向かって。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加