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老人は、居間の奥にあるドアを開けた。
「そうではない人々は皆、海を渡り、別の場所へ旅立ったからだ」
「そんな。海は渡れませんよ。舟に乗ったくらいじゃ、汚染されたしぶきを浴びてしまう」
「そうだな。空でも飛ばなくては、不可能だ」
向こう側は、居間よりもさらに暗い部屋だった。
クリストフは誘われて踏み入る。窓にはカーテンではなく、木板が貼られていた。
暗闇に目が慣れてくると、そこには、見慣れたガラス瓶が並んでいた。ざっと十五個はあるだろうか。
「なんですか、これ? 中に何か入っている……ヨゾラクラゲ? いや、違う……」
「月海月だ。聞いたことがないか、エリッセルタルフから。空を飛ぶくらげの話を」
「あります……けど、これが? まさか」
「こいつらは月と星の明かりには何ともないが、太陽にあてると死んでしまう。だからこうして、最後の群れを、日の差さない部屋にとっておいた。何しろあの海では、俺たちが子供の頃に更に汚染が増して、絶滅は時間の問題だったからな」
「このくらげ、そんな昔から生きてるんですか……? 今も?」
「月の光をあてなければ冬眠のような状態になり、日にもあてなければそのまま何十年でも生きる。この瓶の水は、当時の海の水だ。今の海水と入れ替えたりすればたちまち死ぬだろう」
老人は瓶の一つを手に取った。よく見ると、瓶の下の方に紐が回してある。老人はその紐を解いた。
「あの、確かに、僕は祖父から、空を飛ぶくらげの話を聞いたことがあります。でも、くらげの体は水でできています。空なんて飛んだら干からびて……」
「だからエリッセルタルフはお前に教えたんだろう。月海月を、干からびさせずに、今の汚れた海水にも触れさせずに、飛ばせる方法を」
老人が窓を開けた。月明かりが差し込み、老人は手に持った瓶をそちらへ掲げる。
「くらげを、海水ごと瓶に詰めるのさ。今夜のような満月の光なら、申し分なく飛ぶ」
水の中のくらげが、ふわりと広がったように見えた。そして、……その瓶が、ゆらゆらと空中に浮遊した。
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