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春の森は木の葉が小さく、まだ芽吹かない樹木もある。おかげで日差しが地上にまで届いていた。緑の淡い匂いに交じって、梅の花の甘い匂いが漂っていた。木立の途切れた水辺には水仙の花が咲き乱れている。
「もうすぐ桜も咲きますね」
「ゼロ番街に行かなかったことを後悔していないか?」
堀内が振り返り、妻が追いつくのを待った。
「ここの生活は気に入っていますよ。子供たちと会えないのは少し寂しいけど」
貴子は笑みを作った。
「ゼロ番街に住んだとしても、子供たちは来ないさ」
「あなたが怒るからですよ」
「俺の我がままで、迷惑をかけたな。俺が死んだら、ゼロ番街に行ってくれ」
「馬鹿なことを言わないでくださいよ」
貴子が堀内の前に出た。
「あれ……」
貴子が小道の先を指した。大きな石の横に吹き溜まりのように枯葉が集まっているところがある。そこで小さな生き物が動くのを見たのだ。
「どうした?」
堀内には何も見えなかった。
「今、犬がいたのよ。隠れちゃった」
「犬?」
「小さな犬よ。プードルかヨークシャー・テリアだと思うけど」
二人は犬がいたところまで歩いたが、そこには何の痕跡もなかった。
「何かの見間違いじゃないのか?」
「見たのよ」
「タヌキかもしれないな」
「タヌキ?」
「子犬はいないが、タヌキやキツネなら住んでいるはずだ。アライグマやハクビシンもいるだろう」
「タヌキやアライグマなら、見間違ったりしないですよ」
貴子はふくれて言いかえした。
「キツネに化かされたのかもしれないな」
貴子の背後で堀内が笑った。
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