ゼロ番街

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「私が桑原です」 桑原は偉ぶらないように、かといって卑屈にならないように、肩の力を抜いて男に正対した。 作業着の男は会釈したように見えた。背を丸めて下から桑原の顔を見上げ、桑原の声に反応するように2歩、前に進んだ。 秘密の話をするために近づくのだろうと桑原は考えた。 しかし、男の足は2歩で止まらず、身体が桑原と接触するほどに進んでくる。それは初対面の人間が作る距離ではなかった。桑原は反射的に身を引いた、が遅かった。作業着の男は桑原に体を預けた。小柄な割に力は強い。 腹部に痛みが走った。 桑原は顔をしかめて、男の体を支えたまま後退した。男は桑原が後退しても足を止めることがなく、桑原に張り付くように進んだ。 桑原の体は急激に力を失い、チタン製の手すりに寄りかかるようにして止まった。手すりの反対側は東京湾だ。 作業着の男は桑原のスーツの内ポケットからタブレット端末を抜き取ると、素早く身をかがめた。そして、桑原の両足を持ち上げた。
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