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男には、すでに自殺場所のめどが立っていた。
もちろん、それらしい枝を持つ桜の木があった場所である。桜の木が淡々と並び立つこの場で元の場に戻ってこられるかという心配も若干あったものの、男はその場を離れ、もう少し先へと進むことを決めたのだった。
それは、もう少し桜を体感していたかったということと、未知のことに対する冒険心があってのことだった。
しかし、これ以上進んでも代り映えのしない小屋が現れるだけだと判断した男は、いよいよ自分の最後の場所へと向かうことを決意したのだった。
最も、あたり一面に桜の木が存在するこの場所であれば、先ほど決めた死に場所以外にも男の琴線に触れる場所は存在するだろう。
これから自殺するにしては妙に軽やかな足取りで男は小屋のある場所を背にして歩き始める。
その瞬間、ビュウ、と強い風が吹いた。それは男の髪を弄び、桜の花びらと一緒に男の背の方へと過ぎていった。地面に落ちた花弁も、それから木に咲いていた花の花弁も、一緒になって宙を舞い、ひらひらと幻想的な舞を踊った。
男の鼻先に、一枚の花弁が舞い降りた。
そしてそれが再び地面へと流れて行くまで、男はその場に立ち尽くした。
男の片手には薄茶色のロープが握られ、まるで猫のように四つん這いになって、男は木の枝の上にいた。
男はすでに、先ほど自殺場所に選んだ所へ戻って来ていた。
首吊りのため、男は枝に、それから自身の首に、ロープを固く縛りつけた。
目をつむった男の耳には、かすかな風が鳴らす葉音、いや花音が届いていた。その心地よい音色に身を任せるように男の体が宙に浮こうとして―
「何をしているんですかっ」
突然耳に届いた雑音に男は顔をしかめ、そして体を止めた。
目を開いたその先には、男が乗っている桜の木の方へと全力でかけてくる女の姿があった。長い髪を四方八方へと散らしながら必死の形相で駆け寄ってくるその女に、男はただぼうっとその光景を眺めていた。
「来ないでくださいっ」
一人で死ぬはずだった。一人で死ぬためにここに来た。
その目的が完遂できなくなりつつある気がして、男は不快さから声を荒らげた。
その声音に驚いたのか、その女は一瞬速度を緩めたものの、止まることはなく、やがて男のいる木の根元までたどり着いた。
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