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男は、現状に思考が追い付いていなかった。
ここには、死を決意した者だけが来るものだと認識していた。けれど、その女の目は、自殺しようとする男に対する怒りの感情をはらんでいるように思えた。
男には、どうすべきかが分からなかった。
男は、周りに流されるタイプの人間だった。自分で何かを決めるということが大の苦手だった男は、草船のごとく、ただ、淡々と流され続けた。
人を傷つけ続け、そして人に傷つけられ続け、限界の限界が来たところで、ようやく男は引きこもる決意をした。
男の引きこもり生活は一年ほど続けられた。そうしている内に金がなくなり、空腹状態が絶頂に差し掛かってようやく、男は自殺を決意したのだった。
そんな男だったからこそ、彼には自分のもとへ駆け寄ってくる女を差し置いて飛び降りるという選択肢を選ぶことができなかった。
そうして、その女が男のいる枝まで登ってきて、枝と男の首をつなぐロープを切るという一連の動作を、男はただ茫然と眺め続けた。
男の思考の中にあった、一人で死ぬ、という意思のことを考えれば、草船と言うほど男の意思は弱くなかったのかもしれない。
ただ、現状に思考が追い付いていなかった男は、結果的に自殺に失敗した。
女に枝から降りるように告げられた男は、何も考えずに、木の幹にしがみつきながらずり落ちるようにして地面に足をつけた。
生きている間にはもう二度と踏まないだろう大地に足をつけてしまったことで、男から自殺する勇気は完全に消え去ってしまった。
「それで、どうして自殺なんてしようとしたのかしら」
女の言葉に、しかしながら男はまだ放心状態といった様子で立ち尽くしていた。
女は男の襟首をつかみ上げ、力任せに男の首を揺さぶった。
「……誰かを傷つけることに疲れたから………」
揺れる視界が平常になったところで、男はようやく声を発した。
顔をしかめた女は、襟首をつかむ手にさらに力をこめるという形で男の言葉に返した。
「もう無理だったんですよ。誰かを傷つけることも、誰かに、お前のせいで、って攻め立てられるのも……」
男の頬を涙が伝う。しばらく無言のまま互いの目を見つめていた二人だったが、その緊張感をはらんだ静寂は、女が手を放したことで男が地面に尻もちをついた、その音によって終わりを告げた。
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