あなたを好きでいたいよ

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「・・・・・・ッ。さよなら・・・さよなら昌行・・・」 かつての婚約者が一枚のハガキを手にわたしを訪れた日。 後ろ姿が見えなくなると、まるで二人が離れるのを 待っていたかのように雨が降り始めた。 やっと終わらせることのできた恋の余韻は、ほのかに残って、 ヒナの部屋に戻るのをなぜか躊躇う自分がいた。 激しくなっていく雨に急ぐ人たち・・・。 濡れて帰るのも悪くないな。 帰る道すがら決めようとしている間に着いてしまい、 ひと足先にわたしより早くヒナが帰っていた。 「紫織? ずぶ濡れじゃないか! ちょっと待ってて。今、タオル持ってくるから」 ヒナは、幸運にも雨にあわなかったらしい。 ちょうど着替えようとしてスーツのジャケットを脱いだところだった。 昌行がここへ来たことをこの人は知っている。 今しがた、わたしと彼が会っていたことも。 わたしの瞳を見れば泣いていたこともわかるのに・・・。 「あぁ、こんなに濡れて・・・。風邪ひくよ」 甲斐甲斐しく拭いてくれるタオルの下。 あふれそうな涙は、落ちなかった。 何も、聞かないでいてくれた・・・。 その夜。 ずっと捨てられなかったペンダントをわたしは、 ようやく手放すことができたのだった。 上條紫織は、空港に着くと恋人の姿を探した。 キョロキョロ見渡していると大きな声で名前を呼ばれる。 「紫織!」 あまりに大きいのでぎょっとして慌てて駆け寄る。 「ちょっと声が大きいわよ。恥ずかしいじゃない」 「ごめんごめん。聞こえないかなと思ってさ」 「・・・聞こえたわ」 「よく来たね」 笑うと優しくなる瞳。 その笑顔は、一瞬にしてわたしを包みこむ。 「どうした? 具合でも悪いのかい?」 「ううん。・・・忘れてただけよ」 「何を?」 「自分が高所恐怖症だったこと」 「新幹線でも来れたのに、どうして飛行機にしたんだい?」 「だって・・・早く会いたかったのよ、ってちょっと人前・・・」 「今のは、君が悪い。・・・大丈夫。誰も見てないよ」 彼の言うとおり周囲も似たような状況だ。 抱き合うのも、抱きしめられるのも久しぶり・・・。 ヒナの匂い、包まれる胸のあたたかさ。 耳元で僕も会いたかったと囁かれると、 もう自分からは、離せなくなってしまった。(遠恋だから) 彼の方から離れるまで幸せな気持ちを貪った。
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